小美玉市小川の町並み 
小川
地図


小川の町並
 小美玉市小川はほぼ茨城県の中央部、霞ヶ浦の北岸、園部川下流左岸に位置し、近世から内陸水路の重要な河岸として栄えた。
古くは小川・横町の2ヶ村であったが江戸初期に一村となる。江戸はじめは佐竹氏領、慶長7年(1602)松岡藩領、元和8年(1622)からは水戸藩領。村高は慶長7年(1602)には1,288石余、「元禄郷帳」では1,126石余、「天保郷帳」では1,149石余、「旧高旧領」では917石余。「水府志料」によると小川三町(大町・田町・横町)と見え家数159、村の規模は東西14町余・南北1里とある。享保3年(1718)の家数250・人数1,142。
江戸初期から霞ヶ浦水運の河岸として繁栄し、寛永元年(1624)には水戸藩の定番が置かれるようになり、延宝7年(1679)には小川運漕方役所が設けられ、運漕奉行以下諸役人が常駐するようになった。寛永14年(1637)に水戸藩が小川河岸に使用した人夫911・馬7,298とあり、享保年間(1716〜36)の小川運漕方役所の役人・船数は運漕奉行1・手代4・中間3、藩の御手船15、船頭10で、この他に民間船52とある。
小川河岸は水戸藩領から、園部川・霞ヶ浦を経て、佐原から利根川を遡り、関宿から江戸川に入って江戸浅草に達する内陸水路である。
小川村では廻漕業を専業とする豪商も多くなり、元禄13年(1700)には藩主への献金も潮来村・湊村に次いで多く445両にもなった。これは村内富豪5人の出金であった。
江戸も後期になってくると、奥州の大型船が鹿島灘を乗り切って、直接銚子や江戸に入港するようになると、衰退がはじまった。しかし水戸藩は内陸水運をその後も使っている。
明治に入っても繁栄していた小川河岸だが、大正13年の鹿島参宮鉄道開通、常陸小川駅営業開始により、小川河岸も消滅してしまった。
昭和に入り養蚕業が盛んになり小川繭市場は全国に知られる重要な市場に成長したが、百里原に海軍航空隊基地が設置され、戦時色が強くなり繭市場も衰微した。
今、古い町並は旧道(水戸−小川河岸ー霞ヶ浦)沿いに往時の姿そのままに残っている。
県道59号線や県道8号線はバイパスとして別ルートを通ったため、古い町並がそのままチルド保存された状態になった。道路地図にも小川土蔵街として紹介されているほどで、寄棟や切妻の土蔵造りの重厚な商家建物が連なる姿は見事であった。
造り酒屋さんや醤油醸造元の巨大な建物も町並み景観に寄与するところが大きく、保存のための手だてが講じられていると思うが、今の時期を逃すとこの町並は無くなる道を辿ると思われ、一刻も早い行政と地域の手立てをお願いしたい。
町並み指数 50
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  日本の地名 茨城県  平凡社  下中邦彦  1982年 

小川の町並

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