出桁造りの町並が続く南牧村砥沢、江戸時代には砥石の採掘で栄えた所だ。 南牧村砥沢は中山道脇往還が下仁田で分岐し、砥沢を経て信州・甲州に通じている。国境に通じるため、文禄2年(1593)砥沢村に南牧関所が設けられた。 砥沢村の江戸時代は幕府領で耕地は全て畑で、上畑・中畑・下畑・下々畑・山畑・桑畑・楮畑・切畑・荒畑と分類されていた。家数・人数は宝暦3年(1753)156・742。安政5年(1858)117・456。 特殊な産業として砥石の採掘があった。徳川家康の関東入国以来幕府の御用砥として重要視され、御蔵砥とも称された。 天正5年(1577)の売買にかかわる文章も残存することから、中世末期には開発されていたことになる。 江戸期に入り富岡町の奈良屋彦次郎が経営にあたっていたが、その後経営者が何人も交代した。砥石の採掘は砥株の所有者121軒のみが許されていた。極めて良質な砥石であった。 穀市も立てられ、信州佐久米が中馬によって峠越えで運ばれ、1・4・8の日の九斎市の穀市で売買された。 南牧関所の通行を見ると、安永5年(1776)の記録では4月12日〜22日の11日間で、信州から上州へは77人。上州から信州へは121人とある。主な通行人は山伏・油売り・ふるい屋・桶屋・武州藍屋などで特徴的なのが信州米の輸送の中馬である。 家数・人数は宝暦3年(1753)156・742。天保9年(1838)122・401。安政5年(1858)117・456。 中世末期から江戸期にかけて産出された砥石は、明治11年新鉱脈が発見され、生産量は大幅に増加した。明治29年には全国生産第2位になり、従業員数も総人口800人の75%を占めた。しかし昭和30年頃から生産は激減し、昭和60年以降採掘されていない。 町並は南牧川沿いに形成され、街道の両側には出桁造りの町並が昔のままの姿で残っていた。造り酒屋の建物も健在だったが、もう店は閉められていた。 大きな期待を持って訪れたが、トップ画像の右側の一軒が取り壊されただけで、町並の様相が一変しガッカリした。でも200mにも満たない小さな範囲であるが、古い町並はよく残り出桁造りの建ち並ぶ貴重な町並であった。 群馬県の歴史散歩 山川出版社 群馬県高等学校教育研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
砥沢の町並 |
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