中之条町小雨は利根川の上流部吾妻川の支流白砂川右岸、白根山麓の東斜面に位置する。 江戸はじめは沼田藩領、天和元年(1681)幕府領、代官熊沢武兵衛以下48代の更迭があった。 明和元年(1764)の三ヶ村明細帳によると、家数14・人数88、馬11。但し同年の同様文書では家数22・人数102とある。天明8年(1788)の差出帳では村の東西120間・南北360間、家数22・人数103、馬22とある。また、幕末の改革組合村高帳によると、大戸村寄場組合に属し、高61石余、家数24。明治10年頃の家数28・人数145、生業は農・養蚕25・商業1・工業2で繭6石6斗・麻500貫を産していた。 中之条町六合支所を見下ろす位置に、冬住みの里資料館がある。小雨集落の北西4〜5kmの所にある草津温泉は江戸時代には寒冷地のため夏季だけ営業し、冬季は湯宿を閉ざして小雨などに下りる習慣があった。その当時の資料を展示した資料館で草津温泉や小雨村の資料が展示されている。 明治に入り次第に冬でも草津に留まる人が増え、明治中頃にはほぼ冬住みの習慣は消滅した。 明治22年の町村制施行によって、赤岩・小雨・生須・太子・日影・入山の6ヶ村と現草津町域の2ヶ村が合併して草津村となった。明治33年草津村から赤岩・小雨・生須・太子・日影・入山の6ヶ村が分村して六合村(くにむら)が成立し、平成の合併で中之条町となる。 冬住みの習慣が無くなったのと、草津村から分村となったのは何らかの関係があったのかもしれない。 江戸期から山林を利用した木炭・木工品を特産物とし、しゃもじ・ひしゃく・曲げ物・木鉢などが知れていたが、現在では民芸品として土産品用に作られている。 昭和2年では水稲・大麦・小麦を生産し、8割の農家が養蚕を行い、馬鈴薯・大根・漬菜のほか稗・栗・蕎麦・大豆などの雑穀も作られていた。 さて町並だが、この地域も群馬県の農山村特有の大型の養蚕農家家屋が見られる。明治期からの活発な養蚕業の賜物の大型家屋である。 せがい造りと云われる出桁造りの家・妻面の真壁を街道に向けた養蚕農家の大型家屋が建ち並ぶ 光景がみられ、空気抜き小屋根を備えた家屋も多くあった。 養蚕場の2階や3階は改造されて部屋になっている家屋が多いが、今ではその部屋に住む人も無く、農作物の保存場所となっているようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
小雨の町並 |
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冬住みの里資料館 |
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