中之条町赤岩の町並み
赤岩
地図


赤岩の町並
 中之条町赤岩は利根川上流域、吾妻川支流の白砂川下流左岸の段丘上に位置する。
江戸時代のはじめは沼田藩領、天和元年(1681)幕府領、寛延2年(1749)幕府領と旗本伊丹氏領の相給で明治を向かえる。
「元禄郷帳」で113石余、「天保郷帳」で114石余、貞享2年(1685)の検地控えでは113石余。幕末の改革組合村高帳によると、木戸村奇場組合に属し、高113石余、家数55。明治10年頃の家数61・人数276。生業は農業41・商業5・工業3・医師1で、繭150石・麻500貫を産していた。
明治22年草津村の大字となり、明治33年からは六合村の大字となる。明治24年の家数63・人数332。
江戸期から木地師の里として、山林を利用した木炭・木工品を特産物とし、しゃもじ・ひしゃく・曲げ物・木鉢などが知れていたが、現在では民芸品として土産品用に作られている。
標高600m〜1100mの高地で農地は殆どが畑で水田は極めて少ない。赤岩は水利に恵まれず、田畑の収穫だけでは生計が成り立たないため、男は山仕事・女は麻布を行っていて、明治10年に作成された「上野国郡村誌」には繭を前橋に、麻を東京に出荷していると記載がある。
昭和2年では水稲・大麦・小麦を生産し、8割の農家が養蚕を行い、3割の農家で麻も行われていた。馬鈴薯・大根・漬菜のほか稗・栗・蕎麦・大豆などの雑穀も作られていた。
さて町並だが、この地域も群馬県の農山村特有の大型の養蚕農家家屋が見られる。明治期からの活発な養蚕業の大型家屋が建ち並ぶ集落である。
せがい造りと云われる出桁造りの家・妻面の真壁を街道に向けた養蚕農家の大型家屋が建ち並ぶ
光景がみられ、空気抜き小屋根を備えた家屋も多くあった。
養蚕場の2階や3階は改造されて部屋になっている家屋が多いが、今ではその部屋に住む人も無く、農作物の保存場所となっているようだった。
そして今は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されて、地域を揚げて保存や景観維持に務められている。
町並み指数  50
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
   群馬県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1987年


赤岩の町並

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