真岡市の町並み 
荒町・久下田

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荒町の町並
 真岡市の中心部の荒町・田町・谷町は栃木県南東部、五行川の上流域で、県都宇都宮市街から南東に約16km程の所に位置する。
芳賀氏は宇都宮氏の重臣となって、鎌倉・室町時代を通じてこの地を支配していて、芳賀高継は天正5年(1577)に台町の岡に芳賀城(真岡城)を築城して本拠とした。しかし、慶長2年(1597)宇都宮氏の改易に連座して芳賀氏も滅亡した。その後同城主蒲生氏の支配下にはいり、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)浅野長重が真岡城に入り真岡藩が成立しが、嘉永9年(1632)小田原藩領となり、真岡藩は廃藩となり廃城あとに陣屋を設けて真岡奉行が統治にあたった。
真岡三町と云われる荒町・田町・谷町が整備されたのは、蒲生氏が入った頃からで、大凡の町割りが終わるのは、廃藩後陣屋町になってからの慶安3年(1650)頃と思われる。
真岡三町の家数・人数は寛文10年(1670)の村々明細帳によると台町の家数167・人数802。田町・荒町は一括で家数307・人数1,427とある。
産物は真岡木綿で、農間余業として発展したもので、東京の伝馬町・本町などの木綿問屋の傘下に入り販路を広げ、文化〜天保年間には年間38万反の生産を維持して全盛期を誇った。
今、古い町並みは何も残って居なかった。道路拡張が行われて電柱の無い見事に整備された道路が町中に広がっていたが、それによって古い家並みが取り壊されたと思われる。

真岡市久下田は栃木県の南東端、真岡市街から南南東約10kmの五行川右岸台地上に位置する。江戸時代から昭和30年までは谷田貝町といい久下田と改称されたのは昭和30年である。
「慶安郷帳」では幕府領、「寛文朱印留」では常陸下館藩領、「元禄郷帳」では旗本増山氏知行、「改革組合村」「旧高旧領」ではともに幕府領。
天保年間(1830〜44)の家数127とあり、谷田貝町とあるように在郷町的な性格を持っていたようだ。
下総結城から那須烏山城下へ向かう南北路が通る。
木綿の生産が盛んで、江戸初期には久下田木綿と云われていたが、江戸後期には真岡木綿として販売されるようになった。
この久下田も道路拡張が進み、町並はすっきりとなっているが、古い町並みが残っていない。伝統的な様式の家屋だけでもと探すが、それも殆ど残っていなかった。
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59年
  日本の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

荒町の町並

久下田の町並

久下田の町並

久下田の町並

久下田の町並

久下田の町並

久下田の町並

久下田の町並
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