水海道は鬼怒川水運の重要な拠点で、河岸が成り立ち、一と六の六斎市も立ち商業町として機能していた。 関ヶ原の戦い以後、この地域に勢力を持っていた多賀谷三経の領地は没収され、幕府領となり代官伊奈忠次の支配地となっていた。領主の変遷は、幕府領のあと、一時大輪藩領時代もあったが、何人もの旗本領、幕府領の繰り返しでのまま明治を向えている。 鬼怒川と小貝川に挟まれた沖積低地では、江戸初期より中期にかけて大規模な新田開発が行われた。新田開発される以前の集落は旧河道の自然堤防上に形成されていたものである。この新田開発は元禄期(1688〜1704)の小谷沼の開発や享保期(1716〜36)の飯沼新田開発では大生郷村新田・伊左衛門新田・五郎兵衛新田・笹塚新田・横曾根村新田などが成立している。 元禄期(1688〜1704)には鬼怒川東岸の水海道村に、水運の発展に伴って河岸が成立し「水海道河岸 江戸へ川通三十三里 運賃米百石に付弐石九斗」とある。また水海道村では六斎市も立ち明和期(1764〜72)には木綿・鍬紙・煙草・魚・紙・荒物などが取引されていた。 水海道河岸には「鬼怒川の水は尽きるとも、その冨は尽くることなし」と称された豪商たちが店を連ねていた。文化文政期(1804〜30)には江戸地廻り関東八組造醤油家仲間が結成され、水海道の7軒の商人が加入している。 安政2年(1855)の水海道村書上では、家数610・人数2,767。明治2年の水海道村明細帳には河岸問屋7・酒造3・醤油造4・濁酒造8が見え、家数693・人数3,307。「里方河岸附農間商い渡世之者多ニて賑候村方に御座候」とみえ、商都として繁盛していた様子がわかる。 明治17年の県勧業年報によれば、年間5,000円以上の取引を行う商人は米穀商3軒・呉服太物商4軒・同卸商1軒・醤油商2軒・糸綿商1軒があった。 今回訪ねたのは鬼怒川東岸の、かって水海道河岸があった辺りで、自然堤防上にできたと思われる町並である。多くあったと思われる店蔵と呼ばれる土蔵造りの建物も、数少なくなっていて連続した町並ではないが、湾曲した道にそって伝統的な土蔵造りの建物が点在していた。 しかし水海道市では保存に向けての対策は一切ないようで、ここまで土蔵造りが少なくなると保存運動も起こらないのかもしれない。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 |
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