みなかみ町須川は利根川上流の支流赤谷川中流右岸の河岸段丘丘陵上の須川平上に位置する。佐渡往還でもあった三国街道の須川宿が置かれていたところ。 江戸はじめは沼田藩領、天和元年(1681)幕府領、寛延2年(1749)越後長岡藩預かり地、のち旗本久世氏領となり明治を向かえる。 三国街道の宿場として栄え、須川町とも呼ばれていた。地内では市も立っていたが、江戸初期に中絶したらしく、貞享4年(1687)には赤谷川の増水時には生活物資が不足して宿泊大名にも迷惑がかかるとして市場再興願が出されている。 沼田藩真田氏時代には、領内支配の重要な拠点でもあり、本陣・脇本陣・問屋・旅籠が並んで賑わっていた。天和元年(1681)の郷村品々記録によると馬継場が立てられていた。 文政10年(1827)の農間渡世取調書上帳によると家数130・人数500で、うち農間商いや諸職業が30軒で、居酒屋・髪結いなどがいた。煙草栽培も行われていたようで、文久元年(1861)の沼田煙草商人仲間議定連名帳に4名の名がある。 明治10年頃の家数129・人数564とあり、農業・養蚕が主で繭110石・煙草1,300貫を産していた。 今、須川宿では「たくみの里」として町並み整備がすすみ、多くの観光客で賑わっています。木工・竹細工・陶芸・わら細工などの山里の伝統的な製法を伝えるために、須川宿の大型家屋が提供されていて、多くの方が手作を楽しんでいる。 さて肝心の町並みだが、三国街道は明治に入り、旧街道筋を拡張することなく、新道が相次いで建設されたが、須川宿から離れた赤谷川沿いを通ったため、宿場町は交通網から取り残され町並がそのまま残ることとなった。 街道の中央を流れていた水路を端に移動したので、広い道幅の街道ができ、養蚕が盛んだった当時の大型家屋がそのまま残った町並が観光客の目を引いている。出桁造りの家屋、多くの空気抜きを残した家屋、真壁の妻面を街道に向けた家屋が殆どの町並。なかなか見応えのある町並みを出現していた。養蚕農家の大型家屋を利用した村興しに成功したよい例だろう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
須川の町並 |
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