みなかみ町永井は新潟県との県境の三国峠を控えた三国街道(現国道17号線)の永井宿である。 江戸はじめは沼田藩領、天和元年(1681)幕府領、寛延2年(1749)越後長岡藩預り地となり、同3年(1750)から幕府代官支配になり明治を向かえる。 「旧高旧領」では永井村と見え36石余。元禄2年(1689)問屋場の設置が命ぜられ、三国峠を控えた三国街道の宿として本陣・脇本陣もおかれ賑わっていた。 元文元年(1736)の家数人数改控によると家数29・人数161、馬35。天保14年(1843)の書上では26軒・107人とある。 当宿駅の設置起源は明らかでないが、貞享3年(1686)の検地帳にはすでに17軒の宿並屋敷がみられるので、少なくともその頃までには宿の形態を整えたと思われる。 早くから越後米が三国峠を越えて移入された。これらの越後米は寛文(1661〜73)の頃から永井宿で枡立が行われた上で売買されていたが、元禄期(1688〜1704)にはそれが制度化され、少なくとも元禄14年(1701)以来、四郎衛門・徳兵衛・十兵衛の三人が枡立て問屋として越後米の取引統制を行っていた。 天保9年(1838)の永井宿諸商売書上によると、永井宿は総家数25で、うち専業農家2軒の他は米穀商人7軒を含め殆どが農間商人である。 明治期に入っても、三国街道の宿駅としての機能を維持し、荷を運ぶ馬方の往来も多く、明治中期から大正期にかけて信越線・上越線が開通し、輸送の主力が変わるまで繁栄を続けた。 今、永井宿を訪ねると宿場町当時の風情は感じられても、余りの規模の小ささに驚く。旧街道に面した家屋は10軒にも満たないようである。どの家も養蚕が盛んだった当時の大型家屋がそのまま残っている。本陣は取り壊されて小公園になっていたが、新しく永井宿郷土館が建てられ永井宿の資料を展示公開していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
永井の町並 |
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永井宿郷土館 |
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