壬生町の町並み 
通町・中央町
地図


通町の町並
 壬生町は栃木県中央部南寄り、県都宇都宮市街から南西に約17kmの、鹿沼台地上にあり、現通町・中央町は黒川の右岸に位置する。
江戸期を通じて壬生藩の城下町で、城下を日光への道、壬生通(日光西街道)が北上し、壬生宿が形成され、黒川右岸には壬生五河岸が設置され、交通の要衝であった。
壬生氏は15世紀中ごろから壬生城を本拠地として勢力を張っていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条氏攻めで壬生氏は廃絶し、当地は結城氏の支配下になった。
関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)日根野吉明が入封し壬生藩が成立し、以降、寛永11年(1634)阿部忠秋が、寛永16年(1639)三浦正次(3代続く)が、元禄5年(1692)松平輝貞が、元禄8年(1695)加藤明英(2代)が入封した。そして正徳2年(1712)鳥居忠英が入封し、以後8代続いて明治維新を向かえる。
宇都宮で奥州街道から分かれる日光街道の成立は、将軍秀忠による元和3年(1617)の日光社参の時であるが、それ以前から江戸より日光への道は奥州街道を小山の北、喜沢で分かれ、思川に沿って北上、壬生・鹿沼を通って今市に至る道の方が距離は短かった。この通りを壬生通(日光西街道)といい、日光に家康廟の造営が行われる際の資材運搬に使われた。それ以後将軍の日光社参にも利用され、日光街道と壬生通りの両方が利用された。
壬生城下は三浦氏・松平氏時代に整備された。壬生城の西を流れていた黒川を東に移し洪水防止と田畑拡充が図られた。
城下は表町と通町から成り、南北に貫通する壬生通(日光西街道)に沿って形成されていた。南の江戸口から城下に入ると、南から北へと下表町・中表町・上表町と続き、更に城郭に沿って下通町・中通町・上通町があり、堀に沿って西に折れると東西に下新町・上新町が続き日光口に至った。他に表町には上町・中町・下町・上横町・下横町。通町には上町・中町・下町・新町・船町・横町・宇都宮街道の各町に分かれていた。
正徳2年(1712)の明細帳によると、表町が7町18間半で家数162。通町は12町10間半で家数219とあり、在郷分も合わせると家数総数は545・人数3,204であった。同明細帳によると、商人と職人は29種127人を数え、小間物屋21・大工15・塩屋14・米屋8・造酒屋5・油屋5・魚屋5・桶屋5・………などで、六斎市は2・7の日が表町、4・9の日が通町で開かれた。
壬生宿は日光の家康廟の築造時の物資運搬時に宿としての機能が備えられたと思われ、天保14年(1843)の壬生通宿村大慨帳によると、宿内町並南北19町29間、宿内家数429・人数1,870。本陣は下通町に、脇本陣は中通町にあり、旅籠屋は10軒あった。
今、壬生町の旧壬生通(旧日光西街道)の通町を歩いても、最近の道路拡張のためか古い町並みは殆ど残っていない。伝統的な様式で建てられた家屋が少し街道筋に点在している程度で寂しい町並み探索だったが、大谷石の土蔵が数多く見られたのだけでも良しとするか。
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59年
  日本の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

通町の町並

中央町の町並

中央町の町並

中央町の町並

通町の町並

通町の町並

通町の町並

通町の町並
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