益子町益子は栃木県の南東部、小貝川の上流左岸に位置する。 江戸期は黒羽藩領。村高は「慶安郷帳」2790石余、「元禄郷帳」1573石余、「天保郷町1697石余、「旧高旧領」1831石余。家数は文化年間(1804〜18)171、天保年間(1830〜44)の家数76、安政3年(1856)は72。 益子村は常陸国笠間(茨城県笠間市)や岩瀬(茨城県岩瀬町)に通じる交通の要衝で、常陸谷田部(現茨城県つくば市)と茂木の両陣屋を往来する大名細川氏の通過村にあたり、通行の度に人馬を負担した。他に日光社参り際の加助郷、奥州街道の代助郷などを勤めた。 村内は新町・内町・城内・道祖土・石並の5組に分かれていて、黒羽藩の陣屋が内町に置かれていた。 嘉永6年(1853)大塚啓三郎が始めた瀬戸焼は現在の益子焼の前身で、黒羽藩の保護を受けて発展した。黒羽藩では瀬戸焼を藩の専売品として御産物瀬戸物役所を置いて支配し、明治2年には当村から18人もが藩から窯を借り、農間余業として徳利・土鍋・土瓶などを生産した。商品は鬼怒川真岡河岸から船で江戸に運ばれ、日本橋瀬戸物町で捌かれた。 明治10年の家数239・人数1,567、馬141。民業は農業を主とし陶器製造や炭焼きを行い、女は農間に機織りをした。他に酒造業5・旅籠屋3・質屋7・荒物店5・大工6・鍛冶屋3・屋根葺5・杣5・陶器工251・陶器画工13などがいて、同年の陶器産額は1万7500円で東京・横浜地方へ販売されていた。 そして交通網の発達に伴い販路を広げ、明治30年代には窯元数も50軒に達し、アメリカへの輸出も盛んに行われた。大正13年から当地に定住した浜田庄司が始めた民芸品としての益子焼は、第2次大戦後人気を集め益子焼ブームが到来した。 今、町並を歩くと、陶器販売店や陶器関係の会社が多くあるが、期待した町並らしき古い伝統的な様式の建物の連なりは無いようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 栃木県の歴史散歩 山川出版社 栃木県の歴史散歩編集委員会 1991年 |
益子の町並 |
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