草津町の町並み
草津
地図


草津温泉の町並
 群馬県草津町は云わずと知れた日本を代表する温泉、草津温泉所在地。長野県に近い群馬県西部、白根山東麓の標高1200mの草津高原に位置する。
草津温泉の歴史は古く、日本武尊が白根山に登って発見したとか、僧行基が発見したとか、源頼朝が狩りの時に発見したとか諸説があって定かでありませんが、中世には戦国武士の湯治湯として利用されていました。
真田氏に属して戦った湯本善太夫・三郎兵衛門は永禄6年(1563)斉藤氏を没落させた恩賞として、草津谷の領有を安堵している。近世に入り、万治2年(1659)沼田藩主真田信利は湯本氏に草津谷800石を安堵している。戦国以来の所領を藩主から安堵されたという珍しい例だが、湯本氏は寛文5年(1665)断絶してしまった。天和元年(1681)から幕府領。
貞享3年(1686)家数130、明和元年(1764)家数150・人数807。天明8年(1788)家数182・人数717。文政2年(1819)家数181・人数738。文政11年(1828)家数181・人数961。天保12年(1841)181・人数681とある。
文政年間の記録では家数181とあり、居酒屋17・医者2・あんんま2・髪結い3などとなっているが、湯治客で賑わう時期には旅医者・旅あんま・旅芸人などが入り込んで稼いでいた。湯治は7日を一回りとして、自炊客が多かったので、湯治人の世話をする飯炊き女・水汲み女・部屋の掃除する壺回り女などがいて、湯治場として賑わっていた。
寒国のため麦作ができず、粟・稗・大根・蕎麦などを蒔きつけ、村民は3月から10月までの湯治人を相手に村中湯宿稼業であった。冬の寒気は殊のほか厳しいため、湯宿は夏の間だけ営業し、冬期は標高800mの小雨村付近まで下がって生活する冬住みの生活していた。しかし明治期になると、住居や食糧貯蔵を工夫して越冬する人々が現れ、交通の便も良くなったことも手伝い、次第に通年営業する湯宿が増えた。
今、年間300万人近い観光客が訪れる草津温泉は、冬もスキー客で賑わいを見せています。古い町並みは温泉地の中心地にある「湯畑」の周りに展開し、大小合わせて100程ある旅館やホテルが温泉街を形成している
木造3階建ての旅館建物の連なりは、訪ねるものに存在感を鼓舞しているようである。そして土産屋や居酒屋が続く歓楽街は木造2階建ての建物が連なり、夜の賑わいは流石に観光温泉地と思わせるものだ。
町並み指数  40
参考文献
   群馬県の歴史散歩  山川出版社  群馬県高等学校教育研究会  1998年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
   群馬県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1987年


草津温泉の町並

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