北茨城市平潟は茨城県の太平洋に面した最北部に位置する。 平方とも書いた。江戸はじめは岩城氏領、慶長7年1602)松岡藩領、元和8年(1622)陸奥棚倉藩領、慶応2年(1866)からは武蔵川越藩領。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに505石余。文化4年(1807)の村明細では家数335・人数1,277、天保7年(1817)には家数328・人数1,231。村の規模は東西3町・南北4町。 文禄4年(1595)の岩城氏領小物成目録には大船3艘・猟船10艘・丸木船7艘とあり、それぞれ小物成を納めているので、早くから沿岸漁業が行われていたようだ。 平潟港は寛永年間(1624〜44)に仙台藩が廻米船の寄港地として築港したと伝えるが定かでない。仙台藩は平潟を重視して仙台藩陣屋を置き「常州平潟穀役人」を常駐させていた。 寛文10年(1670)河村瑞軒による東廻航路の開発以後中継港で海上交通の拠点として発展した。多くは漁業を営み、大工・鍛冶などの職人も多くいた。 菊池半家蔵の村差出帳によれば、宝永2年(1705)の家数367で棚倉藩の陣屋及び遠見番所が置かれ、「御城米番船弐艘水主弐拾四人年中相勤」とある。 港の周辺に人家が密集し、港には塩・鉄が入り、米・木材・木炭などの積出で賑わいを見せ、近村の廻米の積出港として重要であった。 文政年間(1818〜30)の小宮山楓軒の「浴陸奥温泉記」には、狭小の地に200余戸があって、遊女屋が7軒あり、富商が多く都会のようであると当地の繁栄を伝えている。 今は東廻航路も無くなり、漁港として機能しているが、海水浴や冬の「アンコウ料理」を目的に多くの観光客が訪れる港町となっている。町は港を中心に手のひらを広げたように道路が陸地に延び、商店・住宅・水産加工場が軒を並べる。訪ねたのは冬場だったので、アンコウ料理屋さんの看板が多く目についた。 平成23年の東北大震災での被害があったのだろうか、古い伝統的な家屋が点在する町並となっていたが、往時の繁栄の面影を残す町並であった。2階建てで平入り・妻入りの家屋が混在していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 別冊太陽 日本の町並V 平凡社 湯原公浩 2004年 |
平潟町の町並 |
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