桐生市の町並み
本町一丁目・本町二丁目
地図


本町二丁目の有鄰館
 桐生の江戸時代は「西に西陣、東に桐生」といわれる一大機業地であった。
今回訪ねた本町一丁目〜三丁目辺りは江戸時代は、慶長年間(1596〜1615)に幕府代官大久保長安が桐生川扇状地上の当時荒戸村と久方村の一部を割き、計画的に町立てさせたのが在郷町桐生新町の起こりとされている。元禄2年(11689)の古図によれば、南北9町を町人町にあて、円満寺(今の天満宮)北の丘陵を削平して陣屋を置いた。
桐生新町ははじめは館林藩領、慶長3年(1598)幕府領、寛文元年(1661)館林藩領、天和2年(1682)旗本神尾氏領、寛保2年(1742)幕府領、宝暦12年(1762)旗本神尾氏領を経て、安永8年(1779)からは出羽松山藩領となる。文化12年(1815)の家数753・人数3,269であった。
山地と平地の連結点に谷口集落として発生したこの桐生新町は、山地の生産品と平地からの物資とを交易する市場町の役割を担い、江戸時代中期以降周辺の養蚕地帯を背後地として、繭・生糸・絹織物の取引が活発に行われた。
当地方の織物は「続日本記」にも登場する古くからの織物の産地であったと考えられるが、桐生織物が商品として一般に普及し、産業として確立するのは江戸時代中期以降のことである。
現在、天満宮が本町通りと言われる大きな通りの突き当たりにあり、あたかも門前町の様相を呈しているのは、桐生新町を造った時に、町並の北の起点にするために、梅田の梅原地区にあったものをこの地に移したものである。
この本町通りの本町一丁目・本町二丁目辺りには、店蔵と呼ばれる建物が多く残っている。
防火のための土蔵造りの建物で、重厚な建物にデッカイ鬼瓦が乗っていた。
町並み指数  40
参考文献
   群馬県の歴史散歩  山川出版社  群馬県高等学校教育研究会  1998年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63
   群馬県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1987年


本町二丁目の町並

本町二丁目の町並

本町二丁目の町並

本町一丁目の町並

本町一丁目の町並

本町一丁目の町並

本町一丁目の町並

本町一丁目の町並

本町一丁目の町並

本町一丁目の町並
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