かすみがうら市中志筑は、霞ヶ浦に流れる恋瀬川中流右岸の丘陵地に位置する。 慶長7年(1602)から旗本本堂氏知行、慶応4年(1868)から志筑藩領。 村高は「元禄郷帳」885石余、「天保郷帳」902石余、「旧高簿」1,033石余。文政11年(1823)家数58・人数282。 「新編常陸」によると、村の規模は東西18町・南北12町半。 正保2年(1645)旗本でのち交代寄合衆となった本堂茂親が、村内の志筑城跡に陣屋を構え、以後慶応4年(1868)まで同氏が当村域を支配した。幕末の混乱期に本堂氏は新政府軍につき、明治維新後、加増されて1万110石の大名となり志筑藩が成立する。陣屋跡は今、志筑小学校敷地になっている。 明治12年版の「共武政表」によると、人口100人以上の村として中志筑村が把握されていて、中志筑村は168戸・1,647人とあり、茶や繭などを産していた。明治24年には志筑村350戸・2,260人、馬215頭。 今、町並は東西に延びる道の両側に大きな屋敷で並んでいる。門構えから寺院かと思ったが、普通の民家で豪農の屋敷のようだ。農業を主体とした村だったから、豪農の屋敷が街道筋に並んでいるのだろう。それにしても大きく重厚で立派な家屋が並んでいる様は、江戸末期から明治にかけての土地集積が進んだ結果であろう。中には2階建ての茅葺民家も見られたが、人が住んで居られないようだった。今後どうなっていくのか心痛む光景でもあった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 |
、 中志筑の町並 |
中志筑の町並 |
中志筑の茅葺民家 |
中志筑の民家の門 |
中志筑の民家 |
中志筑の茅葺民家 |
中志筑の町並 |
中志筑の町並 |
中志筑の町並 |
中志筑の町並 |