小幡は近世小幡藩二万石の城下で、陣屋が置かれ町場を形成していて、織田・松平の両氏が在城した。 元和元年(1615)織田信長の次男信雄に小幡藩が給され、元和2年(1616)に信雄の3男信良に上野国2万石を分領し、信良は福島村の陣屋に入国した。寛永19年(1642)3代信昌のとき、小幡に陣屋を構築し移り、同時に町場も整備され、以来廃藩までこの地は小幡藩陣屋所在地となった。織田家は以来7代150年あまり当地に留まったが、明和4年(1767)藩主織田信邦は明和事件に連座して蟄居処分を受け、その養子信浮は出羽国高畠に移封となった。代って同年松平忠恒が入封し以後明治維新まで松平家の支配が続いた。 明和4年(1767)の陣屋引渡絵図写や同年の陣屋絵図によると、陣屋とそれを囲む藩士の居住地区である陣屋内が石垣や土塁などで囲まれた一区画を形成し、門で町屋地区と区別されている。 今、レンガ造りの甘楽町歴史民族資料館のある辺りが大手門の位置で、それより南側が武家屋敷、北の雄川堰沿いが町人町であった。武家屋敷には当時の家屋が残っておらないが中小路と呼ばれる広い通りや食い違い郭などが残り、特に大名庭園の楽山園が残っている。大名庭園が残っているのは珍しい。一方町人町のほうは雄川堰沿いの両側には当時を偲ぶ妻入りの町屋や土蔵が残っていた。中でも明治期に盛んだった養蚕住宅が多く見られ、中央の桜並木と相まって整った古い町並を形成していた。建物の多くは明治から大正時代に建てられたもののようだ。 この地では江戸中期より養蚕業が行われ、大いに発展を見ていたが、安政6年(1859)の横浜開港以後、急速に蚕糸業が発達し、明治期がピークであった。士族も蚕糸業を営み組合を結成し、製糸工場へと発展した。明治42年、小幡村では全戸数775戸のうち、生糸生産戸数は600戸、絹生産戸数75戸であって殆どの家で蚕糸業を行っていたようだ。 今、この町では雄川堰と桜並木を挟む町並と武家屋敷・藩邸跡・領主庭園などの保存対策に乗り出していた。 群馬県の歴史散歩 山川出版社 群馬県高等学校教育研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 別冊太陽 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
小幡の町並 |
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