神流町万場の町並
万場
地図


万場の町並

 神流町万場は群馬県の南西部、東流する神流川の左岸に位置し、同川の両岸は極めて急峻な地形が連続する。河川流域の僅かな平地に万場集落の町並みが連なる。
江戸はじめ万場村は幕府領、文政8年(1825)高崎藩領、天保7年(1836)幕府領代官山本氏支配、同14年(1843)から旗本土岐氏領となる。村高は「寛文郷帳」で畑方110石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに168石余。
万場村は山中領下山郷の一村で、元禄7年(1694)の山中領村鏡帳によると人数371、同15年(1702)の家数75、宝暦年間(1751〜64)では家数75、人数400とある。幕末には村高168石余、家数78とあり、「群村誌」では家数88・人数380とある。
村内では酒造を酒屋八右衛門が行っていて、元禄10年(1697)造高30石とある。山方の村のため漆の生産が行われ、その漆は年貢の対象となっていた。他に菜種油・生糸も生産されていた。
神流川に沿って十石街道が万場を通り、街道に面して家並が連なり、町場が形成されていた。宿場としても機能し、江戸中期まで年12回の市が立ち、享保16年(1731)から1・6の日の六斎市も開かれ、山中領の中心地であった。
大正15年に万場町万場になり、行政・教育・経済・文化の中心であった。万場の明治24年の家数115・人数666。明治25年に大火が発生し、人家・山林を焼き、近隣の村を併せて被災家屋75・被災者383を出し焼けた棟数は159にものぼった。
明治期になり養蚕は益々盛んとなり、明治28年ころに組合がつくられて製糸を行った。昭和13年に森林組合もつくられた。
今、万場の町並みを歩くと、山間部の集落とは思えない町並みが展開している。建物は明治24年に大火に遭っているので、それ以前の建物は無いと思われるが、商家の建物や養蚕農家の建物が混在し、伝統的な建物構成で見ごたえのある町並みを形成している。
、町並み指数  30
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
   群馬県の地名   平凡社   平凡社地方資料センター   1987年


万場の町並

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