神流町平原は群馬県の南西部、神流川上流域の両岸に位置する。今回訪ねたのは神流川左岸の部分。平原村は江戸期を通じて幕府領。村高は「寛文郷帳」で畑方48石余、各枝村の高も含めて「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに113石余。寛永19年(1642)の代官法度遵守請書に山中領中山郷の一村として村名が見える。 村内には酒造を行う酒屋兵左衛門がおり、元禄10年(1697)造高24石、正徳5年(1715)造高8石とある。村では漆栽培が盛んで漆年貢も課されていた。他に菜種栽培も行われ、農間には紙漉きをして下仁田市場へ売り出していた。宝暦6年(1756)の山中領中山・上山13ヶ村村人数書上控によると人数560人、幕末の改革組合村高帳では、村高113石余、家数86とある。明治10年頃の家数111・人数482、馬63とある。 明治22年の町村制施行に伴い、平原村の字土屋ほか21字が北甘楽郡に編入、合併して青倉村大字平原(現下仁田町)になり、残った字は他の4ヶ村と合併して中里村大字平原(現神流町)となった。 以下、現神流町平原についての記載に。 明治24年の家数106・人数493。雑穀が主食であり水車によって脱穀していた。養蚕業が盛んで、機械式製糸工場の従業員は64人もいた。 現在も広大な山地に小集落が散在する農業地域、耕地も傾斜地でコンニャク、林産物(シイタケ・ナメコ)を生産し京浜方面に出荷しているが、過疎地域には変わりなく、無住になり朽ちるに任せた家屋も多く存在し心痛む探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
平原の町並 |
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