神栖市矢田部は利根川下流左岸に位置し、今回訪ねた川尻集落は矢田部の一集落である。 矢田部村の近世はじめは佐竹氏領、元禄年間(1688〜1704)は旗本松下氏と幕府の相給、幕末期は旗本松下氏の知行。 村高は寛永10年(1633)「鹿島領御地頭御分地高帳」および「元禄郷帳」ともに179石余、「天保郷帳」559石余、「旧高簿」688石余、 江戸期の鹿島灘では地曳網漁業が活発に行われ、銚子干鰯として関西に送り出された。17世紀初頭に銚子から北上した関西漁民を主体に地曳網漁が始まったようで、初めは関西に運ばれていたが、後に江戸商人の進出で江戸方面に出荷されるようになった。 この地の新田開発は「掘り下げ田」と呼ばれる方法で、当地の砂丘を開発して新田を造るために、上部の砂層を取り除き周りに積み上げて、積み上げた所に松を植えて防風林や薪とする方法が取られた。 町を貫く飯沼街道(銚子街道)は古来から陸上交通路として用いられていたが、砂地の道で不便であったので、物資輸送は主に利根川を利用した舟運が主流だった。 明治・大正期には銚子・東京間を18時間で結ぶ外輪船が就航し、矢田部にもその寄港場が設けられていた。大正期がその全盛であったが、次第に鉄道に輸送手段が移っていった。 さて、地図にも記載されている屋敷林の川尻集落。外房には槇の生垣集落がみられるが、この地の生垣集落は他の地区とは少し異なる。確かに生垣も見られるが、それよりも一軒分の屋敷が大きく、その中に大きな樹木を茂らせた家が連なっているのです。依って飯沼街道から見ると、槇の生垣しか見えません。飯沼街道から個人の敷地に入る道しか写真が摂れない集落です。 門は構えないで、街道から入る主屋までの道の両側にも立派な槇の生垣が連なっています。 庭の樹木は手入れされているところや、繁茂に任せてあるところもあります。 この形態はどうも、江戸期の新田開発時の田圃の造成した時に松を植林した様式がそのまま集落の住まいにも生かされているように思うのです。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 |
矢田部川尻の民家 |
矢田部川尻の民家 |
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矢田部川尻の町並 |
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矢田部川尻の町並 |
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太田の民家 |