石岡市高浜は霞ヶ浦の北西岸、恋瀬川下流左岸に位置する。 江戸はじめは佐竹氏領、慶長7年(1602)府中藩領、元和元年(1615)幕府領、寛永3年(1626)旗本皆川氏知行、その後幕府領を経て、元禄11年(1698)からは旗本彦坂氏・土屋氏・松平氏・小野氏の相給。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに275石余。元禄11年(1698)では人数558、百姓家数122、馬50、舟22とあり、村の規模は東西12町・南北14町。 高浜河岸は霞ヶ浦水運の重要な港として発展した。物資は高浜河岸から霞ヶ浦を牛堀(現潮来市)・佐原(現香取市)に進み、利根川を遡って関宿に出て、そこから江戸川を下って江戸の本所・深川に達した。高浜港からは米のほかに酒・醤油・炭・薪・材木などが積み出された。 高浜河岸には廻船問屋が軒を並べていた。そして享保年間(1716〜36)今泉家が醤油醸造を、文久年間(1861〜64)には広瀬家が清酒「白菊」の醸造をそれぞれ始めていて、今でも現役で味噌・醤油や酒造をされていた。 明治期になり霞ヶ浦の水運はますます盛んとなり、蒸気船が就航するようになったが、明治28年に日本鉄道海岸線(現JR常磐線)の高浜駅・石岡駅が設置され、次第に霞ヶ浦水運は衰退していった。 明治11年の記録では家数144・人数835、産物は酒・海老・鯉・鮒・製茶・実綿、馬12、船舶88である。明治42年の家数598・人数3,262とあり、明治43年では漁船63・廻船41・馬146とある。 今、高浜の町並は県道144号線から県道276号線に沿って展開する。只、交通量が多く 写真を撮るのも苦労する程で、ゆっくり鑑賞が出来ない。 寄棟・切妻造りの伝統的な様式の重厚な家屋が連なる。前述の造り酒屋さんや醤油・味噌の醸造元の建物が町並み景観に大きく寄与していたし、郵便局の建物も町並に合わせた様式だったのは好感が持てる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 |
高浜の町並 |
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