石岡市国府・府中は茨城県のほぼ中央に位置し、筑波連山の東方、霞ヶ浦の北西端にあたる。 大化改新により常陸国が誕生し、国府が当地域に設置された。中世になり建保2年(1214)馬場資幹は府中の地頭職を与えられ、建保4年(1216)外城の地に石岡城を築いた。元弘3年(1333)石岡城八代城主大掾詮国は古城の地に府中城を築き、石岡城を出城とした。この南北朝期には既に国府に六斎市が開かれている程の賑やかさを呈していた。 天正18年(1590)佐竹義宣は大掾氏を滅ぼして府中城を手に入れている。関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)佐竹氏が秋田に移封され、府中には六郷政乗が入ってきた。以後幕府領、皆川広照領、幕府領、松平伊豆守領、松平伊勢守領、幕府領と変遷した。そして元禄13年(1700)松平頼隆が府中藩2万石領主となり、以後明治まで府中城跡に陣屋を構え松平氏の支配が続いた。 石岡は江戸時代は平村と呼ばれ、平村村内に形成された府中藩の陣屋町で、水戸街道が通っていた。町割りは佐竹氏支配の慶長2年(1597)に行われたと伝わる。寛永2年(1625)の家数1,100余・人数5,100余、馬350とある。村高は「元禄郷帳」では4,834石余、「天保郷帳」でな5,649石余とある。 当地は江戸期以来、酒・醤油の醸造が盛んであった。安政2年(1855)府中の酒造高・酒造業者は2,218石・12戸、明治4年3,910石・18戸、明治42年の酒造高は石岡町8,738石・高浜町2,099石であった。 一方醤油醸造は高浜の今泉家が享保年間(1716〜36)に創業し、明治4年の醸造高3,650石で、業者は20家あった。明治42年の醸造高は石岡町6,265石余・高浜町1,383石余で醸造家は17軒となっている。 府中陣屋町は水戸街道の府中宿としても機能し、宝永6年(1709)には本陣・脇本陣を定め、松並木を街道に植え、茶屋場を造っている。本陣は中町の矢口家、脇本陣は土橋町の森家であった。物資の輸送は高浜港から霞ヶ浦を牛堀(現潮来市)・佐原(現香取市)に進み、利根川を遡って関宿に出て、そこから江戸川を下って江戸の本所・深川に達した。高浜港からは米のほかに酒・醤油・炭・薪・材木などが積み出された。 明治期になり霞ヶ浦の水運はますます盛んとなり、蒸気船が就航するようになったが、明治28年に日本鉄道海岸線(現JR常磐線)の高浜駅・石岡駅が設置され、次第に霞ヶ浦水運は衰退していった。 今、古い町並は南北に走る旧水戸街道(現国道355号線)に沿って展開している。北は府中4丁目位から南は国府6丁目位までに展開する。中でも国府3丁目辺りが一番の見どころで、重厚な土蔵造りの店舗や看板建築の建物が連なる。 電柱の無い広い通りの両側に町並が展開するが、これは近年の道路拡張によって奥にあった建物が道路に面したものになったも多くある。 殆どの建物は、昭和4年の大火後に建てられたものである。看板建築の多くも大火後の建物のようだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 |
国府3丁目の町並 |
国府3丁目の町並 |
国府3丁目の町並 |
国府3丁目の町並 |
国府3丁目の町並 |
国府3丁目の町並 |
府中3丁目の町並 |
国府5丁目造り酒屋 |
国府5丁目の町並 |