常陸太田市の中心市街部(旧太田村)は茨城県の北東部、久慈川の支流里川とその支流の源氏川に挟まれた台地上、久慈山地の続きである舌状台地上の鯨ヶ岡を云われる所にある。 中世、太田村には佐竹氏の居城があり、約470年間佐竹氏の本拠地であった。天正18年(1590)小田原参戦により、豊臣秀吉から下野や常陸の国を与えられ、豊臣政権下の大名としての地位を与えられた。そして天正19年(1591)領国経営の本拠を太田から水戸に移し、行方や鹿島の豪族を倒して、領国統一を完成した。以後佐竹氏の秋田移封まで、太田は父義重の隠居城であ。 関ヶ原の戦いの際、去就をはっきりさせなかった佐竹氏は、戦後の処理として慶長7年(1602)秋田に移封となった。後に武田信吉が、徳川頼宣が、そして慶長14年(1609)には徳川頼房が入封して水戸藩が成立し、太田は水戸藩領となった。 宝永4年(1707)水戸藩は太田城を陣屋として家老中山信敏を置いたが、享和3年(1803)松岡(高萩市)に陣屋を移してからは別館として太田御殿と称した。 太田村の村高は寛永12年(1635)「水戸領郷高帳」では2,003石余、「元禄郷帳」2,464石余、「天保郷帳」2,624石余。「水府志料」によると家数626、村の規模は東西約12町50間・南北23町8間で、水戸から棚倉(福島県)への往来(棚倉街道)の駅所とある。 「新編常陸国誌」によると、宝暦13年(1763)の家数577・人数2,277、文化2年(1805)には家数626、安政5年(1858)には家数885とある。 佐竹氏が秋田に移封させられ、太田が水戸藩支配になった頃から在郷町・宿場町として発展した。棚倉街道や岩城相馬街道が通る太田には宿場や問屋が集中した。特に領内北部の産物を集荷して水戸に送り出す機能をもった問屋場として発展して行った。中でも紅花問屋や綿問屋・灯心や茣蓙を扱う問屋が活躍していた。 今、古い町並は台地上の中心市街を南北に通る2本の道路に沿って展開している。その中でも北部の西一町・西二町・東一町・東二町とその北側の内堀町・塙町に多くの伝統的な様式の家屋がみられる。土蔵造りの商家建物や妻面を見せた土蔵などが連なり、雰囲気のある古い町並を演出していた。でも、訪ねたのは東北大震災の後、約2年ほど経ってからだったが、大震災の爪跡が生々しく残っているのには心が痛んだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 別冊太陽 日本の町並V 平凡社 湯原公浩 2004年 |
塙町の町並 |
西二町の町並 |
西一町の町並 |
西一町の町並 |
西一町の町並 |
西一町の町並 |
東一町の町並 |
東一町の町並 |
内堀町の町並 |
内堀町の町並 |