東吾妻町大戸は榛名山の西麓、利根川上流域に支流吾妻川の支流温川の右岸に位置する。 天正18年(1590)豊臣秀吉の命で大戸城に岡氏が封じられ、のち旗本松平氏領、元和元年(1615)旗本禰津氏領、元和4年(1618)幕府領で明治を向かえる。 大戸村は貞享3年(1686)の再検地で699石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。寛政6年(1794)の宗門帳によると家数202・人数931とある。江戸後期の改革組合村高帳によると、高699石余、家数155。明治10年頃の家数168・人数690、農・桑業148戸、商業8戸、猟師6戸、医師2戸、雑業5戸(以上男子)、養蚕・製麻業50人(女子)で繭200石、麻1500貫などを産していた。 豊岡(高崎市)で中山道から分かれて室田宿を経て大戸宿を通り、西方の須賀尾峠を経て信州・草津に向かう信州街道(草津道)と、温川に沿って中之条に向かう道が交わる交通の要衝であった。 この信州街道は中山道や北国街道の脇往還として賑わっていた。信州から江戸に出る場合に公用荷が北国街道や中山道を通るのに対し、信州街道は距離も短く、宿場の数が五分の一であり、荷痛みが少ないので商荷が多かった。 しかし参勤交代の大名が通る中山道の助郷に指定されていて、坂本宿や軽井沢宿へ勤めねばならなかった。 大戸宿は街道の両側に町並が形成され、天保8年(1837)大戸宿絵図によると宿は上宿と下宿に分かれ道の両側に宿割りされた家が並ぶ。戸数は68軒。本陣や脇本陣が無いのは参勤交代などの大名の通行が無かったためだろう。 天保10年(1839)の「諸業高名録」に大戸宿の問屋・宿屋・飯屋などが紹介されていて、問屋と宿屋を兼ねた田中市郎左衛門も載っている。大戸宿には、万屋・貝沢屋・永楽屋・角屋・寿屋・麻屋・万年屋・新井屋・現金屋などの屋号があった。 町並は宿の中ほどで折れ曲がり、南北の通りと東西の通りの両側で展開している。この地特有の養蚕業が行われていた建物だろうが、養蚕農家という感じがしない。大型のせがい造りの建物だが、商家か旅籠屋と云うような感じの家屋が多い。多くの家で江戸時代から続く屋号を前面に表示した看板を揚げて、各種の商売をされている光景が見られる。現金屋・因屋・藤井屋……などの看板を揚げて営業をされていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
大戸の町並 |
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