東吾妻町原町の町並み
原町
地図


原町の町並
 東吾妻町原町は利根川上流域、吾妻川中流左岸、吾妻川と四万川によって限られた合流点内側の台地上で、中之条盆地の南西端に位置する。
江戸はじめは沼田藩領、天和元年(1681)幕府領、宝永8年(1711)沼田藩領、享保15年(1730)幕府領、延享4年(1747)篠塚藩領、明和4年(1767)幕府領、文化8年(1811)駿河沼津藩領、文政10年(1827)幕府領、文政11年(1828)一部が旗本大久保領となる。
斉藤氏が岩櫃城に拠っていたときに城下町平川戸宿が発達したと考えられる。関ヶ原の戦い後、真田信之が沼田藩の藩主となったが、一国一城令により岩櫃城は破却され、今の原町に平川戸城下町を移し、南西7町に本町筋を取って町割りを行った。(現在の原町大ケヤキから東吾妻町役場近くの八坂神社まで)
江戸後期の御改革組合村高帳によると原町在組と原町に分かれ、原町は高902石余、うち幕府領248石余・家数60、旗本大久保領654石余・家数139。原町在組308石余、幕府領で家数108とある。
中之条盆地は四万川を境に原町と中之条町に二分されている。原町が1・6の六斎市を立てている所に、寛永9年(1632)に中之条町が同じ1・6の六斎市を立てたことから紛争が起こった。一旦は藩主真田信吉の裁定で隔月に市を立てることになったが、紛争は240年間明治5年の示談和解まで続いた。
明治10年頃の家数308・人数1,363、農・桑業254戸・商業60戸(以上男子)、養蚕業400人(女子)で生糸145貫300匁、麻405貫800匁、大豆209石3斗3升を産していた。
今、原町を歩くと平川戸城下から移った所(大ケヤキから八坂神社まで)と大ケヤキから東に続く街道筋に古い大型の民家が点在する。他の地域と同様に大型の養蚕農家の建物が連なっていただろうが、この原町では建物の改造が進んだのか空気抜きのある養蚕農家の建物が見られない。
せがい造りの大型家屋の元養蚕農家の建物自体も建て替えが進んだのか、僅かしか見られなかったのは残念な町並み探訪だった。 
町並み指数  30
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
   群馬県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1987年


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