八尾町の町並 
西町・諏訪町・上新町・横町・下新町・東新町・西新町
地図


諏訪町の町並

  おわら風の盆の八尾町は富山平野の南端、神通川の支流井田川が南の山並みの水を集めて大きな流れをつくる所に位置している。地名は幾つもの尾根筋が集まったという意味であるようだ。
戦国期の八尾地域は城生城に拠った斎藤氏の支配下にあったが、織田信長の支配を経て、豊臣秀吉により前田利家がこの地を支配下した。
八尾の町は聞名寺の門前町として始まった。寛永8年(1631)井田川の洪水により家や耕地を失った八尾村の人々が、聞名寺のある高台に移住してきて、寛永13年(1636)東町・西町が成立し、次いで今町が町立てされた。寛文4年(1664)南新町が成立しするが取り潰され、元禄3年(1690)に南新町を再興して上新町と改称、寛文12年(1672)鏡町、延享2年(1745)諏訪町、同5年下新町、寛政5年(1793)東新町・西新町、同10年天満町ができた。
寛永16年(1639)の富山藩分藩後、八尾の地域は富山藩となった。町では毎月2・5・8の日に九斎市がたった。以後と富山藩での唯一の物資交易市場として繁盛した。
特に蚕種・生糸・和紙の取引は活発だった。そして八尾の商人は蚕種商・紙商を中心として有力商人が多く、藩財政の運営にも貢献し、多額の御用銀を用立てている。
元禄4年(1691)家数362軒・人数1842人(上新町・下新町を除く)。慶応4年(1868)の家数1244軒・人数5226人である。
八尾町は江戸期には富山藩の枠内において繁栄したが、明治に入り流通経済の下では、鉄道や主要道路から離れた地理的位置から町の経済は近代化の波に乗ることが出来なかった。
八尾町を有名にしているおわら風の盆は、元禄15年(1702)から始まったもので、祭礼の日を中心に3日間行った祝い事の廻り盆が初めと云われる。そして近代になり二百十日の台風よけと五穀豊穣を願う風の盆に変わった。近時は全国的にも知られる盆踊りになり、3日間で十数万人の観光客を集めるイベントに成長した。
坂の町八尾と云われているが、なるほど坂というより絶壁の上の町のようで、北側は井田川に削られた石垣の絶壁。南側にも別荘川の深い谷がある細長い高台上の町である。町並は西町・今町・下新町・西町・上新町・諏訪町などに展開し、中でも諏訪町本通は「日本の道100選」に選ばれた出桁造りと千本格子の続く町並である。
町並も切り妻の出桁造り、中二階建て又は二階建て、屋根は今は瓦か鉄板になっているが、かっては石置き板張りの屋根であった。
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参考文献
  富山県の歴史散歩  山川出版社  富山県歴史散歩研究会  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  東海北陸小さな町小さな旅   山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1998年

禅寺橋からの石垣上の町並を見る。

西町の町並

諏訪町の町並

諏訪町の町並

東町の町並

西町の裏側は石垣
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