輪島市は輪島朝市と輪島漆器で有名な町で、名前は全国に知られている。 中世後期この地を支配していたのは、長谷部氏と温井氏がある。長谷部氏は大屋荘に地頭職で入部してより、近世には前田利家の与力大名から前田家の重臣の一人となっている。もう一人の温井氏は室町初期から現れる国人層で、能登畠山氏の被官として、守護代遊佐氏を抑えるまでに成長するが、弘治2年(1556)畠山旧臣らの反感を買って暗殺され衰えた。 この地域では京都や大坂に遠いということもあって、中世的な名主経営の遺制が近世にも残っていた。 それは時国家の活躍で、室町時代の後半から近世にかけてで、農業・製塩業・海運業などを営む大豪族として君臨した。 輪島市の市域には、行政的には近世の町は無くすべて村であって、輪島も公的には「輪島村」であったが、実質的には戸数が多く町の姿であって、農業以外の商工業や漁業が発達していた。 輪島は総称名で鳳至町・河井町・輪島崎町・海士町の4町からなっていて、戸数は享保21年(1736)614、天明2年(1782)795、安政5年(1858)1807戸で同年の15歳〜60歳の人口は4159人であった。 特産品は庖丁・索麺・堅地漆器・海産類などであったが、特に白髪索麺は御献上の上品であった。そして漆器は今でも輪島の特産である。輪島漆器の起源は中世末にさかのぼるが、盛んになったのは近世で、特に寛文年間(1661〜73)の「地の粉」(珪藻土の一種)の発見が大きな転機となり、漆器産業は明治・大正・昭和と幾度か苦難に遭遇しながらも、名実ともに輪島の支配的産業となった。 また、湊は中世以来「小屋湊」「親の湊」として栄え、北前船が出入した。輪島の代表的な豪商として久保屋喜兵衛家がある。600石から壱千石の北前船を三艘もち、西回り航路で活躍した。 町並みを構成する民家は、大型家屋は平入りであるが、町並みの大多数は2階建て、切り妻造りの妻入りで、出入口妻側に軒庇を付けている。日本海に近く潮風が強いので、伝統的な家屋でも漆喰は使用されていない。主屋も土蔵も全て板張りで囲われていたが、最近は朝市通りなどでは装飾のために漆喰を一部使用している家も見られるようになった。 輪島の朝市は今はすっかり観光客の名物になってしまった。毎日午前中に市の立つのは本町通り。もともとは附近の漁民や農民・それに山の民がそれぞれの収穫物を持ちよって、自給できない日常雑貨と交換しあった古い在郷市の名残で、生きた歴史資料である。 石川県の歴史散歩 山川出版社 石川県の歴史散歩研究会 1996年 北前船とそのふる里 北前船の里資料館(加賀市教育委員会) 牧野隆信 平成7年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
海士町天地の町並み |
河井町朝市会場 |
河井町の町並み |
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