町野町曽々木は江戸時代には時国村といい、それ以前は曽々木村だったようだ。 時国村の村名の由来となった時国家は、この地の有力百姓家で多くの下人を使って、港を拠点とする廻船業や製塩業で主導権を握っていた。そして時国村の村高の全てが時国家の持高だった。 寛永年間(1624〜44)に時国家が分立した。面屋(おもや)の時国次郎兵衛家と庵室の時国藤左衛門家に分かれ、面屋は上時国、庵室は下時国と称され現在に至っている。そして村高は上分・下分と表記されたり時国村と表記されたりしていたが、一般には上時国村(主に幕府領)・下時国村(主に加賀藩領)と称されていた。明治初年上時国分は南時国村、下時国分は西時国村となった。 さて、曽々木は時国村北部一帯の地域呼称で、元々は一村として独立していたが、慶長11年(1606)時国村と一村になった。寛永(1624〜44)初期・万治2年(1659)・天和2年(1682)と別村になることを願い出ているが、別村になることは無かった。 曽々木地域では古くから揚浜式の製塩行われていた。享保8年(1723)の時国村様子書によると、曽々木浦の塩畑は23ヶ所あり、うち17ヶ所が曽々木分、4ヶ所が上時国家分、2ヶ所が下時国家分であった。 廻船については、天正3年(1575)に曽々木浦に置いていた時国の「御船の梶」が盗まれていることから、この頃にはすでに何らかの形で廻船業が営まれていたようだ。柴草屋・上時国家・下時国家などが廻船をもって東北地方から敦賀・蝦夷松前まで航行していた。しかし寛文期(1661〜73)以降西廻り航路が整備されたのと併せて、万治2年(1659)の洪水によって町野川の流路が西に移動し、港としての機能が低下したため、江戸中期には時国の廻船業は下火になったと云われている。 かって一寒村に過ぎなかった曽々木は、昭和30年に映画「忘却の花びら」で全国に紹介され一躍有名になり、高度経済成長下、観光客が急増し、曽々木の海岸部の家屋が改修されて、旅館や民宿になったが、今回訪ねたのは観光地としての曽々木海岸でなくその西側の小さな集落です。伝統的な様式の家屋と新しい家とが混じりあった小さな集落でした。 南時国の上時国家の写真は、もう5年ほど前に訪ねた時の写真です。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
町野町曽々木の町並 |
町野町曽々木の町並 |
町野町曽々木の町並 |
町野町曽々木の町並 |
町野町曽々木の町並 |
町野町曽々木の町並 |
町野町南時国にある上時国家 |