能登半島北部、日本海へ注ぐ南志見川の河口に位置している。かっては商店街だった様だが今は店は殆ど無い。江戸時代を通じて加賀藩領。古くから製塩が行われていた。寛永20年(1643)の百姓数19・人数102。延宝2年(1674)の家数39。寛永12年(1635)の塩生産量1394俵。天保11年(1840)の塩生産1,844俵。宝暦年間(1751〜63)から引網漁が行われている。 天明5年(1785)の村況は、馬51匹・牛8匹・油屋1・酒屋1などで、稼ぎは塩薪の販売・農具の販売・猟業・塩士6人による塩焼き。男は大工や木挽きを行い、冬には輪島へ出稼ぎに出かけている。 明治2年の巨細帳では家数70・人数349であった。 この地は地図を見て、ここには古い町並があるだろうとの予想で訪ねたのだが、一部古い町並があったが、殆どは農村集落だった。町並を形成している所でも、かっては商店街だったのだろうが、今では住宅地となっていて商店の営業は無かった。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
里町の町並 |
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