輪島市鳳至町は江戸時代、輪島川を隔てた河井町と共に輪島両町と呼ばれていた。加賀藩領で宝暦13年(1763)百姓数85。安政5年(1858)の持ち船は350石積を最大に5艘。家数は享保21年(1736)255、天明2年(1782)307、天保5年(1834)554、嘉永7年(1854)692、安政5年(1858)702となり、江戸中期には急増していることが判る。 文化7年(1810)の職業構成は総数350のうち、素麺商売75・塗物関係53・鍛冶33・古手商24・家大工23・米商20・そのた122とある。天保14年(1843)では総数560のうち塗師・木地などの塗物関係178、家大工など住居関係53、古手商など衣類関係50、素麺43、米・酒・塩・豆腐など食料関係30、鍛冶25、桶師・提灯張替えなどの家具関係16、船問屋・船大工などの交通関係10、医師・髪結・風呂屋などの衛生関係10、その他145。文化7年(1810)と較べると33年経過した天保14(1843)では素麺が減少し塗物関係が圧倒的に増加していることがわかる。 蔵宿には久保屋・中島屋・樽見屋などがあり、嘉永元年(1848)の猟船と小船は10艘で、同4年の渡海船は400石積通保丸など5艘があった。 輪島漆器の販売は全国の得意先を行商して注文をとり、製作・納入する注文販売を主とするが、近年は観光ブームの朝市・夕市にのって漆器の土産物店が急増してきて、輪島の主要な通りはそれらの店で埋まるようになってきた。 鳳至町は河井町と同じく輪島の基幹産業の輪島漆器生産の中心地で、椀木地・指物・塗師・曲物・沈金・蒔絵の6職の業種の大部分を住民が家内工業で行っている。この鳳至町は稲荷町・上町・横町・浜町・下町・新町・石浦町などと俗称される町区に分かれている。今回訪ねたのはその中の石浦町と呼ばれる鳳来山公園への道筋に当たる県道38号線沿いの町である。漁師町のように板張りの妻入りの家屋が建ち並んでいる光景は漆器の町というより、漁師町に来た錯覚を覚える。 河井町は朝市の町ですが、ここ鳳至町の中心部にある住吉神社境内では毎日夕市が行われ多くの観光客で賑わっている。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |
鳳至町(石浦町)の町並 |