鶴来町は石川県の中央部のやや南、金沢市の南の手取川の中流扇状地の扇頂部右側に位置する。 古代から霊場白山の信仰が篤く、加賀一ノ宮白山比盗_社・金剣宮などの門前町として繁栄した。 鶴来町は古くは剣と云われていたが、寛永年間(1624〜44)に剣から鶴来に改め、延宝2年(1674)に再び剣に、元禄15年(1702)に鶴来と改められた。 戦国時代以前の白山本宮の門前町は物資集散地として、金剣宮門前町は市の立つ町として、鶴来町市街地の原形を形成し、加賀の中心として栄えていた。戸数も多く町並としては、一般農村と異なる特色を持っていた。天明5年(1785)の村鑑帳には家数527軒・人数2210人その内323人が商売人と記録されている。天保年間(1830〜44)の「鶴来村絵図」によると戸数523軒である。 鶴来町は江戸初期から加賀藩領で、鶴来街道の宿駅が置かれ、本町・新町・今町・東町(のちの上東町・下東町)・清沢町・日詰町・知守町・古町・北村町・出町の通称町名があった。 鶴来の伝統的産業として、酒造と煙草栽培がある。中世以来の伝統を持つ酒造は、城下町金沢の成立時に多くの業者が移住したと云われるが、それでも元禄15年(1702)当時石川郡内18軒の酒造家の内9軒が鶴来にあった。 煙草については、天明(1781〜89)頃に白山麓や手取谷の村々で葉煙草栽培が普及し、精製して金沢や松任などへ売り出していた。慶応元年(1865)には村の男子労働人口の約24%にあたる190人の煙草刻み業者が記録され、鶴来村経済の主軸として栄えた。しかし明治31年の専売制施行による打撃をうけ大正初年になくなってしまった。 伝統的な町並は新町に集中して残っている。公開されている町家は、天保3年(1832)に建てられた商家の建物を町が譲り受けて公開しているもので「横町うらら館」と名づけられ、江戸時代の年貢米を管理する蔵宿であった。間口の狭い、奥行きの長い商家の建物で、切り妻造り中2階建てで、通りニワを持っていた。 その他の新町の町並の商家の建物は、切り妻造り、中2階建て平入り、中2階部分も格子をはめたものが多く、 屋根は石置き板張りであったであろうが、今はトタン張りか桟瓦葺になっていた。出桁造りも混じり、町並は伝統的な町並でありながら、バラエティに富んだ町並であった。 石川県の歴史散歩 山川出版社 石川県の歴史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1998年 |
本町の造り酒屋 |
新町にある「横町うらら館」 |
新町の町並 |
新町の町並 |
新町の町並 |
新町の町並 |