疋田は塩津道(新道野越・現国道8号線)と西近江路(現国道161号線)が交わる交通の要衝であった。 江戸時代には宿駅として賑わい、小浜藩酒井氏の本陣も置かれていて、郡内最大の宿駅であった。西廻り航路が開かれる前は、北陸や北国の年貢米や諸荷物は、敦賀から疋田に陸路運ばれ、疋田から新道野越えで塩津や西近江路で海津に運ばれ、琵琶湖水運で大津に運ばれていた。 寛文12年(1672)西廻り航路が開かれ、敦賀・塩津・大津を経由することなく、北国の諸貨物が、瀬戸内海を通って直接大坂に陸揚げされるようになると、疋田や塩津は徐々に幹線交通路としての地位を奪われ衰退していった。 当地の問屋数も寛文10年(1670)には7軒あったが、天明5年(1785)には4軒になり、明治維新頃には3軒となっている。 琵琶湖と日本海を結ぶ運河計画は古くからあり。平清盛の命で重森が開削した跡が、深坂山に残っている。また豊臣秀吉も計画し、江戸はじめには敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立てている。寛文9年(1669)には京都の田中四郎左衛門が、琵琶湖疎水計画の書類・絵図を敦賀町奉行所に提出、元禄9年(1696)にもまた企画するが、郡内の19ヶ村の庄屋の反対にあって中止になっている。 宝永(1704〜11)頃には西廻り航路の開発者の河村瑞軒も試みたという。その後、文化13年(1816)には、日本の海岸に出没する外国船に対して、京都の食料を運ぶ道の確保のために、琵琶湖疎水計画が幕府・藩の手で具体化し、小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として児屋川舟溜りと疋田間の舟川工事が開始され、幅9尺の舟川が完成した。そして川舟による運送が始まった。川舟で運ばれた上り荷は米・海産物。下り荷は茶などで、疋田よりは馬車(馬借座)で塩津などに運ばれたが、川舟運送に荷物を奪われた馬借座の反対により、天保5年(1834)には廃止になってしまった。 今 町並をあるくと、舟川の流れはそのまま残り、川舟当時の舟留まりも再現されている。町並を構成する家屋は特別古いと云う訳でないが、現代的な家屋が少なく、古い町並の様式を伝えている。建築年代も明治から昭和初期に建った建造物が多いようであった。 町並の中央に舟川が流れ、その両側に道路を挟んで町並みが連なる。地元の方(70歳〜75歳位)とお話していて、舟川を中心にして、私が子供の時と余り変らない町の様子です。只、変ったのは舟川の片側の石が最近積みかえられたこと位かなと云っておられたのが印象的だった。 余り古い家屋も、豪商や豪農といわれるような豪邸もないが、古い町並形式が保たれた落ち着いた町並で、私は町並として高く評価したい。 福井県の歴史散歩 山川出版社 福井県の歴史散歩編纂委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 福井県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |
疋田の町並 |