敦賀市相生町他の町並み 
相生町・川崎町・松栄町
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相生町の町並
 敦賀湾奥に位置する敦賀津は天然の良港で古代から登場していた。琵琶湖を経由して京畿への連絡が容易であったため、京都と日本海沿岸や大陸を結ぶ重要な拠点であった。高句麗や渤海の使節は北陸に来航することが多く、これらの外国使節を接待するため、8世紀には敦賀に松原客館が置かれた。
古代の律令国家のもとで敦賀津は京畿と北陸地方を結ぶ重要路と定められ、越前以北の北陸道6ヶ国の官物はすべて海路を敦賀津に運び、ここから琵琶湖北部の海津に送り、湖上を南下して大津から京都に運ぶことになっていた。
中世に入ってからも敦賀津の重要性は益々大きくなり、敦賀津に陸揚げされた荷物は、海津・塩津へ陸路で運ばれ、琵琶湖水運によって大津そして京都に運ばれた。これにより敦賀津には豪商も多く生まれ敦賀経済を牽引した。
近世敦賀町の形成は、天正10年(1582)の本能寺の変以後に武藤氏に代わって敦賀の領主となった蜂屋頼隆が花城の山城を捨てて旧笙ノ川河口の西側(現結城町)に平城を築き、敦賀津の町割りに着手したときから始る。その後蜂屋氏の後を継いだ大谷吉継に継がれ、敦賀の骨格が出来上がる。
寛永11年(1634)小浜藩主となった酒井忠勝が入部したときには、すでに一国一城令で敦賀城は無かったが、敦賀を湊町として機能強化のために整備に取りかかり、寛文年間(1663〜73)に完了し、町数36、枝町も含むと41町になった。
正保2年(1645)の越前国絵図では町の規模は東西930間・南北378間。寛文3年(1663)の町方の家数2,903・人数15,101にもなっていた。
このように近世初頭にすでに整然とした都市計画で、その後大きく発展する筈であった。しかし寛永15年(1638)に開発され、寛文年間(1661〜72)に整備された西廻航路が定着すると、中継湊の敦賀津を素通りする船荷が多くなり、町の発展が止まってしまった。
今回訪ねたのは旧笙ノ川の河口近くの両岸の町で、川西と言われる現川崎町・結城町・松栄町。川中の現相生町である。この辺りは江戸期を通じて敦賀の中心地で、商業・流通が盛んであり、浜側には蔵宿を持つ豪商や諸藩の蔵屋敷も数多く並んでいた地域で、湊町敦賀の表玄関であった。
今、かって栄えていた町を歩いても、伝統的な様式の古い建物が点在する程度で、町並みと言えるほど残っていないが、歴史とは不思議なもので、町並みの雰囲気からこの町が歴史ある町と判るのは伝統が成せる技だろう。旧笙ノ川両岸の相生町・川崎町・結城町・松栄町などには古い様式の家屋が点在し、町並みを形成しているところも見られた。
町並み指数 40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
   福井県の地名  平凡社  下中邦彦  1981年   

相生町の町並

相生町の町並

相生町の町並

相生町の町並

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川崎町の町並

川崎町の町並

川崎町の町並

松栄町の町並み

松栄町の町並
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