富山市四方は富山市の北部、富山湾に臨む位置にある。 江戸期は四方村から四方町になったところで、始め加賀藩領であったが、寛永10年(1633)富山藩領。富山藩領となってからは八尾・西岩瀬と共に藩下3宿の一つとして栄えた。村高は「正保郷帳」326石余、元禄11年(1698)の「高辻帳」276石余、享保6年(1721)の高辻帳487石余、「天保郷帳」では470石余。西岩瀬と共に藩の重要な交易港として栄え、領米を大坂へ廻送する積出港になっていた。 四方村から四方町になったのは元文4年(1739)からで、同時に宿方に指定され町年寄も置かれ、諸商売が公認され、宿に相応しい町並にするため板葺き屋根が要請された。只宿方とされたが、伝馬は持たず実質的には町方の性格であった。 町立て以前の享保19年(1734)の家数327が、慶応4年(1868)には家数734・人数3,439と倍増している。 文化5年(1808)の浦方持船員数書では渡海船120石積2艘、同90石積1艘、同70石積13艘、漁船天道船25石積33艘、漁船筒船40石積16艘、漁船小筒船30石積2艘、計67艘と多くを所有していたのは、藩が富山湾随一の漁業地として保護していたためと思われる。幕末の年貢の約9割を漁業関係で占めていて、富山城下や飛騨地方への魚類供給地として、魚問屋・小商人が発達した。 又、当地は早くから富山売薬の中核となっていて、四方町人層の台頭が見られた。 近代に入っても売薬・漁業を主な産業とし、明治35年に富山売薬株式会社、明治36年に四方魚市株式会社が設立されている。大正8年の家数882、うち商業351・漁業288であった。 今、町並を歩くと、大きな商家の建物と漁業集落の様相を残す町並が混在している。昭和20年の四方大火で焼失が免れた町並が一部残っているためと思われる。売薬配置業の家屋が多いとのことだが、今は配置薬は極少なくなっているので、一部の漁業者以外は都市部近郊の住宅地になっているようだった。そんな中でもかっての商家らしい建物が数多く残る漁業者集落、漁村集落と云う感じだった。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
四方神明町の町並 |
四方二番町の町並 |
四方野割町の町並 |
四方の町並 |
四方の町並 |
四方の町並 |
四方の町並 |
四方田町の町並 |
四方野割町の町並 |
四方二番町の町並 |