新庄町は富山市内を流れる常願寺川西方の平地で、北陸街道(巡見使道)沿いに細長く発達した町並みを持ち、富山城下と西水橋町の中間点に位置している。 南の新庄新町と町並みが続き、古来から北陸街道が通り、霊峰立山への道である上市往来、港町とを結ぶ東岩瀬道が交差する交通の要衝であった。只北陸街道は富山城下町建設で町を迂回するようになり、旧北陸街道は将軍交代時の巡見使の通る、巡見使道とよばれるようになった。 この辺りの江戸時代は町新庄村と呼ばれていて加賀藩領であった。交通の要衝であると共に、富山藩境に近いことから、東岩瀬町と共に加賀藩領新川郡支配の拠点であった。 新庄新町と町続きであったため交通運輸の機能が求められ、明暦3年(1657)宿並、元禄9年(1696)新庄新町と共に馬継宿に指定さてたようだが正式の宿場町でない。 享保18年(1733)の家数125、安政3年(1856)の家数175、人数811。安政6年(1859)の諸商売書上げでは、豆腐屋4軒・煙草屋4軒・古道具古着仲買人9・綿屋3など23種もの職種が書きあげれれている。 今、古い町並みは旧巡見使道に沿って展開している。その中で薬種商だった金岡邸もその一つだったが、今は建物を修復して薬種商の館として公開されている。 他にも伝統的な様式の切妻造り平入りの商家建物が点在するも、町並みとはなっていない。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
新庄町一丁目の町並 |
新庄町一丁目の町並 |
新庄町一丁目の町並 |
新庄町一丁目の町並 |
新庄町の町並 |
新庄町一丁目の町並 |