富山市水橋町の町並み
水橋町
地図


水橋町の町並

 江戸時代の郷帳類には東水橋村・西水橋村と記載されたり、水橋浦と記載されたりしているが、北陸街道と水橋湊を中心に水橋川河口両岸は町場化しており在郷町として発展していた。慶長(1596〜1615)頃には水橋川(現白岩川)右岸に東水橋村、左岸に西水橋村が集落を形成していた。明暦2年(1656)の村御印留では両水橋村は水橋浦と統合されていて、廻運業と漁業関係が生業であった。尚弘化3年(1846)の町立所書上留では東水橋村・西水橋村として町立てに分類されている。
水橋浦のうち、東水橋には加賀藩の御蔵が、西水橋には給人蔵が設置され、米の積出港として賑わっていた。
天保9年(1838)の廻船は20石積〜160石積が37艘(東水橋28・西水橋9)、他に川船9艘(東水橋6・西水橋3)。安政5年(1856)には廻船61艘(東水橋50・西水橋11)を保有していた。
水橋浦の家数・人数は宝永7年(1710)に448(東水橋220・西水橋228)、2,170(東水橋1,070・西水橋1100)。嘉永4年(1851)には1,079(東水橋728・西水橋351)、4,503(東水橋2,975・西水橋1,528)。安政5年(1858)には1,211(東水橋831・西水橋380)、5,690(東水橋3,870・西水橋1,820)と幕末期に激増している。
職業で見ると、東水橋は廻運関係の職業が多く、西水橋は国廻売薬関係と漁業関係が多い。
東水橋の町並みは南北に通る北陸街道を中心として町並みが広がり、天明2年(1782)の東水橋絵図によると3区域11町で構成されている。西水橋の町並みは、幕末の資料によると9町で構成されていた。
今回訪ねたのは水橋町で江戸期には東水橋村である。この地方特有の2階屋根を大きくせり出した「セがい造り」の建物が点在する。2階部分の大きく張り出した袖壁はこの地方で見慣れたものだが、1階部分にも袖壁様のものが備わっている。名称はどういうのだろう。
伝統的な様式のせがい造りの家屋が多く残っているが、町並みと云うにはチョット寂しい状況ですが、それぞれの家屋の質の高さと、あまり改装することなく住んでおられるので、なかなか見ごたえある町並みを形成している。
伝統的な様式の家屋でも、相対に間口の狭い家屋が多いので、漁業関係を生業にされていたようだが、中には間口の広い商家建物で、廻船業などで富を蓄えたと思われる家屋も散見できる。
町並み指数 30
参考文献
  富山県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1994年
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  昭和54年


水橋町の町並

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