東岩瀬は神通川の河口部東岸に位置する。この地は古く西岩瀬湊として栄えていたが、万治3年(1660)の洪水で神通川の流路が変化して、その湊は東岩瀬湊になり、西岩瀬から移住が行われ、西岩瀬は漁村になってしまった。 明暦2年(1656)に東岩瀬村は東岩瀬田地方(でんじかた)と東岩瀬浦方・東岩瀬宿方に分けられ、寛文2年(1662)には浦方・宿方が北陸街道の宿に指定され東岩瀬宿が成立した。しかし実際には田地方と宿方・浦方及び南西の西宮村とは混然一体の集落であった。 また、東岩瀬町が東岩瀬村から行政的に分けられて成立していたが、前述のようにそれぞれ入り混じって混然一体であったようだ。 また、宿方・浦方の集落が混在しているだけでなく、機能的にも職種的にも入り混じりっていた。 東岩瀬湊は北前船で賑わい大坂廻米の積出し港であった。天明5年(1785)の浦方鑑帳では110石積以下の船39艘のみであったが、安政5年(1858)には400石〜200石積までの船が5艘、他に200石積以下の船は150艘もあった。 地内の町には柳町・新出町・出町・浦町・中町・横町・袋町・福来町・新舘町・川原町・・土場町・新町・一番丁・二番丁・三番丁・四番丁があった。 安政6年の諸商売書上によると、浦方・宿方の合わせて売薬43・渡海船稼35・漁船持35・屎物商30・肴商売30・小船持28・渡海船持25・雑菓子商23・大工22・素麺商売22・諸廻船問屋20をはじめ医者・酒造・蔵宿・質屋・唐津瀬戸物商・油小売・鍛冶・醤油屋・室屋・豆腐屋・旅籠屋・風呂屋・古手屋・船大工・髪結・両替屋などがあり、職種は80種程も有り、商売の合計は600人余りを数えた。 北陸街道の宿及び加賀藩領の年貢米積出湊として一大町場を形成していたことがわかる。 今古い町並みは、富山港に沿った道路の一本東側の道沿いに展開している。どの家も大型で間口の広い伝統的な様式で建てられた商家建物である。北前船等の廻船業や肥料や昆布商で莫大な利益を得た商家だろう。それも一軒や2軒でなく大きな建物が連なっているのは壮観である。 切妻造り平入り、格子・袖壁を備えている。この地方は2階にも格子を備えているのが特徴だろう。 一般的には2階は漆喰塗込めの虫籠窓が普通だが、矢張りこの通りの裏側が神通川で直ぐ海だから、漆喰は最小限にとのことだろう。 そしてこの通りの裏側は神通川(海)に面していて、船から直接荷揚げしていたようであるが、今は埋め立てられて大きな道路が通っていた。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
岩瀬大町の町並 |
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東岩瀬町の町並 |
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