五箇山は富山県の南西部、白山山系の北端に位置し、砺波平野とは険しい山地によって遮られ、平坦部は殆ど無く、庄川とその支流の渓谷部の緩い斜面を、おもに生活の場としている。上平村、平村、利賀村を総称して「五箇山」と呼んでいるが、記録によれば永正年間(1504〜)に、平・上平・利賀の三ヶ村の区域を 「五ヶ山」と通称していたことが記されている。 五箇山の中世史は真宗史料に頼るほかないほどに、本願寺との関係が深い。白川郷の真宗は蓮如以前から発展を見ており、寺院化も進んで照蓮寺勢力が庄川下流へまで延びているが、その教線は五箇山まで届いていない。 上平村西赤尾にある行徳寺は赤尾道宗の開基である。赤尾の赤尾道宗が蓮如より教えをうけて、行徳寺を拠点に教義をひろめて五箇山に真宗信仰の道をひらき、五箇山全村を門徒化した。このように五箇山と白川郷は真宗の系列に相違があることがわかる。行徳寺は今も健在で鐘楼門、本堂、庫裡があり、鐘楼門は入り母屋の茅葺屋根、庫裡も茅葺屋根の切り妻合掌造りである。 元禄年間(1688〜1703)ころから、白川郷、五箇山ともに養蚕、塩硝製造が盛んになった。合掌造り家屋は二階、三階は広い空間となり、妻面を障子窓にして採光と空気の流通をよくした。このように合掌造りは養蚕には最適の建造物であり、江戸時代中期から末期にかけて、巨大化していったと考えられている。 また塩硝製造は夏の間に、山草を刈り、合掌家屋の床下に大きな穴を掘り、草、土、と何層にも投げ入れ4〜5年熟成させて塩硝を製造した。合掌家屋は養蚕と塩硝土の生産工場だったともいえる。 上平村菅沼も平村相倉も江戸時代は加賀藩領であって、寛文年間(1661〜73)には菅沼は7軒、相倉は15軒。天保10年(1839)菅沼は9軒、相倉は50軒。明治5年菅沼は14軒、相倉は42軒であった。 菅沼集落には今、9棟の合掌造り家屋が残っている。殆どの家が妻入りで、入り口側は入り母屋風になっていたり、妻側に瓦の庇を設けたりしていて、反対側は切り妻造りであった。 相倉合掌集落には切り妻合掌造りの茅葺屋根の家屋が20棟、素屋造りとよぶ簡素な間取りをもつ建物2棟は相倉民俗館になっている。 行徳寺の隣に岩瀬家(国の重要文化財)がある。五箇山では最大の合掌造りの民家で、平入りの建物、江戸時代の末期ころに8年の歳月を費やして建てられたもの。間口14.5間(26.4m)、奥行き7間(12.7m)、高さ8間(14.4m)。内部は準五階建てで、3〜5階は養蚕作業場である。春は養蚕、夏は塩硝、冬は和紙を作り、35人もの大家族が住んでいた。 菅沼合掌集落に「五箇山民俗館」と「塩硝の館」がある。共に妻入りの合掌造の家屋である。平村の村上家(国の重要文化財)には塩硝製造のまや(穴)がそのまま残っていた。 世界遺産の合掌造り集落 北日本新聞社 1996年 富山県の歴史散歩 山川出版社 富山県歴史散歩研究会 1993年 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1998年 |
五箇山西赤尾の岩瀬家(国重文) |
相倉の集落 |
五箇山平村上梨の村上家(国重文) |
相倉の集落 |
相倉の集落 |
菅沼の集落 |
菅沼の集落 |
菅沼の集落 |