高岡市吉久の町並み
吉久2丁目
 地図


吉久2丁目の町並
 高岡市街の北東約5kmの小矢部川と庄川に挟まれた狭小な地域に吉久はある。
高岡と放生津(新湊市)とを結ぶ街道と、小杉新町(小杉町)への往来の合流点にあり、その街道沿いに人家が集まっていた。
江戸時代、村の西の小矢部川寄りに加賀金沢藩の吉久御蔵があり、領内収納米は小矢部川を下って吉久の御蔵に一時収められたのち大坂などの廻米あるいは知行米として運び出された。吉久詰米奉行も任命されていて、寛文元年(1661)には4人も任命されていた。吉久御蔵への詰米は寛文9年(1669)1,210石。享保12年(1727)2,643石。寛政元年(1789)4,500石と増えていった。御蔵は6棟で、一棟の長さ30間・幅4間・高さ2間であった。寛政6年(1794)頃の家数は74とある。明治22年の家数107。
高岡の町が払米政策の年貢米などの集散地として、その後は日本の米穀市場の指導的立場により繁栄した一端として、御蔵の米収納蔵のあったこの吉久にもかっての繁栄の証である伝統的な様式の重厚な商家の建物が多く連なって残っている。今ではこの地域一帯が工場地帯になっている中で、この吉久だけが昔のままの姿で残っているのは、何か奇妙に感じられる町並探訪である。
古い町並みの建物自体は同じ高岡市金屋町の建て方と同じような建て方で、出桁造りと言われる建て方の建物ですが、雰囲気は随分と異なっていた。金屋町は同じ建物でも生きた古い町並ですが、この吉久は枯れた町並とでも表現するべきか、家屋は建っているが、人の生活が感じられない家が多く見られる。
この地域の伝統的様式の一般的な家屋は、平入り・切り妻造り・中2階建て・千本格子・出桁造り・袖壁付で2階部分は漆喰塗りだが、真壁造りで柱・梁を際立たせている。そして1階の庇は板張の家が多く見られた。
町並み指数 50
参考文献
  富山県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1994年
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  昭和54年  


吉久2丁目の町並

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