高岡城がこの地に築かれたのは、慶長14年(1609)加賀藩2代藩主前田利長のときである。 庄川沖積平野の真ん中の高岡台地に高岡城と城下町が建設された。台地は三段よりなり、上段に城と武家屋敷が、中・下段に町家が置かれ、東西、南北の碁盤割に道路が区画され、職種に応じて場所を指定し、地租が免じられたり、種々の特権を与えて保護育成がなされた。金屋町の鋳物、木町の木材・薪炭・廻送業、桧物屋町の指物・塗り物などである。 高岡城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、城の建物は無くなった。城が無くなれば武士も金沢へ引き上げていなくなり、高岡町人の生計が立ちいかなくなり、町民も金沢への引越しを急いだ。このような状態のとき、三代藩主前田利常は転出禁止の布告を発し、町人の足留をした。 そして本丸に米倉2棟と塩倉1棟を作って、高岡を払米集散の中心地とし、城下町もそのままにして商工業を奨励した。 開町当時の戸数は武家・町人合わせて1200戸・5000人前後と考えられるが、元禄12年(1699)には2628戸・1万3085人となり、文久3年(1863)には4698戸・人口2万以上に成長した。 高岡の発展の基は藩と藩士の払米の集散で、これを基礎にとして高岡は後に全国屈指の米穀市場に発展し、加賀藩切っての商工業都市・経済都市に成長した。 近世の高岡は職人の町でもある。金屋町の鋳物がその第一で、他に漆器・織物・染色などが盛んであった。 商業の町 土蔵造りの町並み山町筋を見る。高岡市の中心部、旧北陸道に沿った町並みに土蔵造りが連なる。慶長の開町の時、高岡城の南西部の下段に、近郊の住民を招き、碁盤目状に区画して町が造られて以来近代に至るまで高岡の商業の中心地であった。 現在の町並みは、明治33年の大火後に建築されたもので、当時の規制(富山県令建物制限規則)に従い耐火性に優れた土蔵造りとしている。土蔵造りというのは、土蔵のように外壁を土と漆喰で塗り固めて耐火構造にした建物のことであり、時代を反映した洋風建築の要素が加味されているのが、山町の土蔵造りの特徴の一つと言われている。 公開されている菅野家は、主屋や土蔵は明治33年の大火直後に再建されたもので、主屋は土蔵造り、2階建、平入り、黒漆喰仕上げの重厚な外観、大屋根は桟瓦葺で軒庇は本瓦葺、2階には観音開きの土扉をつけ、1階は千本格子、格子戸である。大きく重厚な外観の土蔵造りの割に内部は、柱や長押などの部材が細く、数寄屋風である。土蔵は2階建で蔵前も土蔵造りとし、大火の教訓を生かして防火に念入りに備えた造りになっていた。 富山県の歴史散歩 山川出版社 富山県歴史散歩研究会 1993年 高岡市山町筋伝統的建造物群調査報告書 高岡市教育委員会 昭和61年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1998年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
木舟町の町並 |
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木舟町の菅野家 |
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守山町の町並 |
守山町の町並 |
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守山町付近の町並 |