戸出は高岡市街南東部約12kmにある在郷町で、庄川の西約2kmに位置している。中世末には庄川の氾濫原台地であった戸出野を、元和3年(1617)下中条村(現砺波市)の川合又右衛門が開発したところで、当地は戸出新村として出発し市立ても許された。 江戸期のはじめ、北陸街道は今石動から戸出を経て富山に通じていたが、慶長14年(1609)に高岡城が出来てからは、北陸街道が高岡を通り、今までの街道が上使街道と呼ばれるようになった。 新しく村立てされた戸出新村の家並みは上使街道に沿って建ち並び、2と7日の六斎市も開かれ布売買が行われた。 寛永19年(1642)、3代藩主前田利常が御旅屋を建て、川合又右衛門預けとなり、貞享3年(1686)には川合又右衛門に与えられた。市が立ち御旅屋が置かれると戸出は町的性格が強くなり、承応3年(1654)には中出し米蔵一棟が創建された。そして庄川左岸の村々の年貢米を戸出へ収納することとなり、農村経済の拠点ともなった。 江戸後期になるといっそう町場化が進み、上使街道に沿って西町・中町・東中町・御蔵町・東横町・東町、そして南北の高岡街道に沿って北町・寺町・馬場町・南町などの通称町名があった。 文化7年(1810)の職業構成は布仕入14・小間物商売13・米小売商売11・質商売10・豆腐商売10・太物商売9・古手商買8・茣蓙商売8等など商家150軒、打綿屋8・紺屋6などの職人家20、その他宿屋4・休憩茶屋4・風呂屋1などで合計180軒となっている。 戸出村は元禄年間(1688〜1704)以来麻布の生産が盛んで、京坂地方に販売された。文政期には藩産業政策に助長されて木綿の生産も盛んとなった。 家数・人数は寛文3年(1663)123、享保2年(1717)150・727、宝暦5年(1755)180・920、寛政4年(1792)220・1,058、天保8年(1837)330・1,701、明治5年405・2,023とある。 明治に入っても、江戸期以来の織物業が盛んで多くの工場が建てられると共に、賃機織も行われ187戸が従事していた。明治30年中越鉄道(現城端線)が開通し、戸出駅が設置され役場・警察署・郵便局などの役所や多くの会社が建てられ、近郊村の政治・経済の中心地となった。 今古い町並みは、上使街道と高岡街道の交差点辺りを中心に、両街道に沿って展開していた。伝統的な様式の家屋は、切妻造り平入りが多く、1階の庇より2階の屋根の部分が前に出ている雪対策の家屋が多い。江戸期から大正期までは在郷町として、商業の中心地であった様子が、間口の広い商家建物からも想像できる。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
戸出町の町並 |
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