高岡城がこの地に築かれたのは、慶長14年(1609)加賀藩2代藩主前田利長のときである。 庄川沖積平野の真ん中の高岡台地に高岡城と城下町が建設された。台地は三段よりなり、上段に城と武家屋敷が、中・下段に町家が置かれ、東西、南北の碁盤割に道路が区画され、職種に応じて場所を指定し、地租が免じられたり、種々の特権を与えて保護育成がなされた。金屋町の鋳物、木町の木材・薪炭・廻送業、桧物屋町の指物・塗り物などである。 高岡城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、城の建物は無くなった。城が無くなれば武士も金沢へ引き上げていなくなり、高岡町人の生計が立ちいかなくなり、町民も金沢への引越しを急いだ。このような状態のとき、三代藩主前田利常は転出禁止の布告を発し、町人の足留をした。 そして本丸に米倉2棟と塩倉1棟を作って、高岡を払米集散の中心地とし、城下町もそのままにして商工業を奨励した。 江戸時代の高岡の産業は藩奨励の米、塩そして綿、布と鋳物が上げられる。前田利長は砺波郡西部金屋村より、鋳物師7名を招き、千保川の東側に金屋町を作り、土地を支給し、諸役を免除して保護育成した。当初は鍋、釜の日用品、鋤、鍬の農機具の鉄器を主に製造していたが、明和年間(1764〜)頃より銅器の鋳造も盛んとなった。高岡の美術銅器は今日においては、全国生産の大半を占めているが、日用品より美術工芸品への転換を図られたのは、明治に入ってからである。 高岡銅器を製造していた金森宗七は幕藩体制の崩壊により職を失った金沢の金工・象牙師を高岡に招き高級銅器の制作にあたらせたので国際的に高岡銅器の名声が揚がった。 今町並を歩くと、金屋町は一筋の町並みだが、道路は御影石で敷き詰められ、電柱も取り払われていた。町家は、道路沿いに主屋、中庭を挟んで土蔵を置き、その後ろに常時火の取り扱いをする吹屋を置いた。つまり土蔵を防火帯として主屋への延焼を防ぐ配置となっている。只、今では殆どの工場が郊外に移転していた。 どの町家も切り妻造り、中二階建、平入り、袖壁があり、大屋根は桟瓦葺、軒は板貼りに銅板のカバー付きかカバーなし、一階には格子、格子戸を付け、また雪対策として大きな登梁を入れてあり、二階は白壁または黒壁の真壁造りで木製や鉄製の格子がはめられていた。 富山県の歴史散歩 山川出版社 富山県歴史散歩研究会 1993年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1998年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
金屋町の町並 |
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