江戸初期までは城下町として、大正期からは海水浴場として賑わっている町である。 戦国期に逸見氏の城下町となり発展の基礎がつくられた。慶長5年(1600)若狭一国を与えられた京極高次は家老津川一義を高浜城に入れたが、酒井氏の代には廃城となったものの、高浜は熊川・佐柿と並ぶ町場として町奉行による支配が行われた。 村内は旧高浜城の城下町を中心にした町方と浦方に分けられた。町方には横町・赤尾町・本町・中町・大西町・岸名町・今在家町があり、浦方には北町・南町があった。文化4年(1807)の「雲浜鑑」では町方・浦方合わせて家数672・人数2,738とある。 又別の資料によると、天明5年(1785)には横町64軒・293人、赤尾町74軒・318人、本町98軒・420人、中町38軒・167人、大西町46軒・192人、岸名町90軒・455人、今在家町35軒・118人、西浦町189軒・730人、舞々10軒・42人、笠屋4軒・22人、町々番屋8人、計648軒・2,765人である。 こうして家数と人数を見ると、小さな地域に多くの人々が暮らしていたことになるが、これという産業も見出せないので、この地方の物資の集散地としての在郷町だったようだ。当然漁業は行われていただろう。春には鱒・秋には鮭・冬には鱈などがとれており、豊富な資源があったことが伺える。また、中世から続いて塩業も行われていたが、塩年貢が高く、次第に塩生産は縮小されて、塩師も次第に専業から農業との兼業になっていった。 明治6年には宮崎町(横町・赤尾町)、事代町(本町)、三明町(中町・今在家町・大西町)、若宮町(岸名町)、塩土町(西浦町)に改称された。 今町並を歩くと、旧丹後街道に沿って古い町並が展開している。特に若宮や三明で多くの古い伝統的な様式の家屋が連なる。殆どが江戸末期から明治・大正にかけて建てられた建物だ。袖壁を備えたもの、本卯建を持った町屋も並んでいる。塗り込めの虫籠窓を持った家屋も多く残り、なかなか見ごたえの有る町並である。車の通行量も少なく落ち着いて町並鑑賞ができた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 福井県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
若宮の町並 |
若宮の町並 |
若宮の町並 |
若宮の町並 |
若宮の町並 |
若宮の町並 |
三明の町並 |
三明の町並 |
三明の町並 |
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