庄川は八乙女山と牛岳の山間を抜けて、庄川町金屋辺りから平野部に出る。いわゆる砺波平野の庄川扇状地の扇頂部に位置している。 金屋は江戸時代から明治期にかけては、金屋岩黒村と呼ばれていた。江戸時代は加賀藩領で十村組は元和5年(1619)金屋組、寛永12年(1635)江田村次郎兵衛組、承応元年(1652)より天保9年(1838)まで般若組、天保10年(1839)より明治3年まで山見組に属した。 近世初期に高まった材木の需要を満たすため、加賀藩では飛騨・五箇山地方に用材を求め、庄川を利用する流木が盛んに行われるようになった。文禄3年(1594)にはすでに金屋に材木囲場が設けられている。庄川の水はこのほか船運・農業用水・飲料水・生活用水として活用されたが、洪水の被害も絶えなかった。寛文10年(1670)藩により、松川除の築堤工事が着工され、今の庄川に主流を流す工事は45年を要して正徳4年(1714)に完成した。 金屋は庄川流木の集散地として栄え、早くから町並を形成し、臼・杵・鍬柄のどの木工品が造られていた。 延宝4年(1676)の家数66軒、元禄12年(1699)の家数112軒、明治5年の家数336軒・人数1,560人であった。 近世初頭から金屋の重要産業であった流木は、明治となり伐木の制限が解かれると、青島貯木場の度重なる拡張、相次ぐ木材会社の設立、大正4年の砺波鉄道青島−福野(現福野町)間の開通などで最盛期を迎えた。 今、古い町並は旧街道の県道40号線と国道156号線が交差した辺りの、旧街道沿いに展開している。切り妻造り平入りの建物が並び、雪の重さに耐えるように構造材の太い梁が外からも見える。庄川の流木産業によって繁栄した段丘上の地域であるが、今はその面影が見られず、ひっそりと静まり返った町並だった。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 |
庄川町金屋の町並 |
庄川町金屋の町並 |
庄川町金屋の町並 |
庄川町金屋の民家 |
庄川町金屋の町並 |
庄川町金屋の民家の入口 くぐり戸付きの大戸が見え、玄関はその奥 |