蛸島は能登半島北東端、飯田湾北岸にある。海岸に船舶の目標となる高さ30mの山王の森と呼ばれる小高い丘、沖合い400mに周囲200m余りの弁天島がある。砂浜の割りに海が深いこともあって古くから漁港として栄えていた。 江戸期を通じて加賀藩領で、漁業を生業とした集落で廻船業者もいた。元禄3年(1690)の家数213。 安永6年(1777)加賀藩士の太田頼資著の「能登名跡志」には「家数四百軒あり、近郷の猟場にて四十物(干魚)其他問屋あり」と記しているように、漁師町で問屋もいたほど栄えていた所だった。 寛文3年(1663)には加賀藩の年貢米を収納する御蔵が二ヶ所あり蔵番もいた。特産品として素麺は蛸島素麺の名で各地に販売されていた。江戸末期には酒造屋4軒で270石を醸造していた。 海商島崎三蔵は、千石船で北陸地方の米・豆・藁製品・漁網資材・清酒などを積んで、鰊漁の始る五月下旬までに蝦夷に渡って売りさばき、帰りには昆布・鰊・数の子・鮭・鱒などを買入れて日本海沿岸の諸港で売っていた。 明治44年の家数318・人数1,844のうち農業62・漁業161・商業42・工業29・その他で、昭和15年には家数390のうち農業76・漁業255・商業30・工業14と漁業主体の村であった。大正13年の総網数は229でイワシ・タイ・ブリが漁獲高の7割を占めていた。江戸時代に特産だった素麺は明治の終わり頃から急激に衰えたが、一方明治の中期頃より養蚕が盛んとなり、漁業に次ぐ生産高を示した。 今、町並を歩くと裕福な漁師町との印象を受ける。板張り妻入りの民家が連なるのはこの地の漁師町の特徴だが、相対に家屋が大きく無住になっている家も少なく、辺鄙な漁師町にしては活気がある町のようだ。 珠洲市の中心部飯田町とは違って在郷町的な町並ではないが、道路や町並の形態・家屋等は漁師町ですが、造り酒屋や米屋・呉服屋などがあることから、在郷町的な性格も持っていたのでしょう。 昭和39年国鉄能登線が蛸島まで開通し、悲願の鉄道が就いたが、平成17年には廃線となってしまったのは、人口の少ない辺鄙な地域の典型的な悲哀でしょうね。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
蛸島の町並 |
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