旧高屋村は江戸初期には高屋・高井の表記が併用されていたが、寛文年間(1661〜73)以後高屋に定着したようである。能登半島先端部で外浦街道沿いの村である。外浦で北西風から避難できる唯一の港であり、寛文4年(1664)以来、夏に破船奉行が置かれていた。 破船奉行とは聞き慣れない奉行だが、高屋に居住し御城米船の海難事故の処理に当たっていたようで、寛文4年(1664)から文化8年(1811)までに150人余の破船奉行があげられる。 安永6年(1777)加賀藩士の太田頼資著の「能登名跡志」によると、家数百軒余りで「船の懸り間」があり、商家多く繁昌なり、夏季中は破船奉行が滞在し、山廻役の池田氏がいる。ほか船持などの百姓がいるが、なかでも刀禰氏は古い百姓で‥‥」と記している。 日本海航行の渡海船の風待ち・凪待ちの碇繋寄泊地として知られ、破船奉行と共に廻船業者や寄泊する船を相手の商家もあり賑わっていた。しかし明治以降、汽船が大型化し港湾設備の遅れから次第に衰退し、近郷の漁船の溜まり場となっていった。 また製塩業も盛んで、明治3年の塩釜数41、明治4年の製塩従事戸数23とある。明治6年の家数102。明治22年の家数103・人数589であった。 今、集落を歩くと、高屋港に面しては大型の家屋が建ち並び、風待ち・凪待ちの船が多く係留され、賑わっていた当時を思わせる町並だが、港の西側の外洋に面しては竹でできた間垣が続く厳しい環境を思わせる町並であった。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |
高屋町の町並 |