今、飯田町は珠洲市の中心地である。江戸時代から飯田町といい能登半島先端部の物資の集散地で、在郷町の性格を有していたが公的には村方扱いであった。 江戸時代は在郷町として発展したようで、元禄3年(1690)の家数185。文政期(1818〜30)に206人であった百姓数が安政6年(1859)には301人と増えているが、内訳は持高が1石以下が132人から162人に、同2升以下が18人から64人へと増加しており、町方の性格が強くなったことを示している。 「能登志徴」(1701)によると「今も駅宿にて家数三百軒余り(中略)残らず商家にて繁昌なりし地なり」とあり、飯田宿は宿馬定数も定められた藩公定の宿駅だったようだ。 寛永4年(1851)に能登国代官とした派遣された稲葉左近直富により、当地に御算用場が置かれたほか、加賀藩の年貢米を納める御蔵が三つ設営され、蔵番も付けられた。 幕末には酒造家5軒があり。2と7の六斎市も開かれていた。このように当地は在郷町として発展していった。 明治に入っても、陸路はバスの運行、海路は定期航路が開設され、明治17年に郡役所が設置され以来、郡の中心的位置にあり早くから発展していった。 大正9年の家数463のうち、農業65・漁業50・商業201・工業80・自由業55であり、商業都市として発展していたようだ。 今、古い町並は吾妻橋の両側の飯田町に展開している。町並は在郷町だった当時の面影を色濃く残し、漁師町の面影は殆ど無い。板張り妻入りの2階建て家屋が続く町並の中に、平入りの大型商家建物が混在する町であった。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
飯田町の町並 |
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