砺波平野散居村の町並 
砺波市・福野町・福光町・城端町・井波町・庄川町・小矢部市
地図  撮影ポイント


上下の写真とも砺波市夢の平散居村展望台からの風景。
上の写真は「いらかぐみ」仲間のnomnomさんから拝借しているもの
下の写真は撮影した日、天気は良かったが「モヤ」がかかって視界が悪くレタッチすれどこれ以上は無理のようだ。




この写真は3回目の撮影の挑戦だったが(2010.09.18)

 砺波平野の集落は、緑豊かな屋敷林に囲まれた家々が、平野一面に点在する典型的な散居集落です。その美しい風景は日本の農村風景を代表する景観の一つでしょう。
(散居村とは各農家が100m程度の間隔をおいてバラバラに建てられた村落形態であり、個々の家々は強風の吹きつける西・北・南側の三方に杉を植え、風の少ない東側は垣根を薄くするもので、家の周りは自分の耕作する稲作地となっている。)
普通、農村集落は人家が集まって形成されるが、ここ砺波地方では家が散在している。平地の中の微高地に屋敷林(かいにょう)に囲まれて孤立した農家が点在する。この起源や成立については諸説がある。
その一つに春から夏にかけて吹く山越えのフェーン現象があげられる。台風に近い風速をもつ湿度の高い温風で、フェーン時の火災の類焼を防ぐため、屋敷を杉で取り囲むためというもの。二つ目に、扇状地緩傾斜部における水利の便や、耕地を宅地の周りに集めることによる農作業上の便などが重なっていると考えられる。
三つ目は加賀藩の農政改革によるもの。「家を建てる時は、一族相談の上、場所を決め、およそ家建てより50間ばかり除き、まばらに家建て致すべく」とあるを起源とする。
四つ目は一向一揆の団結を恐れ、農民の集団化を警戒して分散家建したもの。
五つ目は幕府の巡検使の目から広大な耕地を隠そうとしたもの
六つ目は中世の土豪が自らの居城を防衛しカムフラージュするための政策として屋敷林が残り、その一族郎党を近所に住まわせた。などなどだが、諸説のままで、未だにその起源と成立が解き明かされてないが、その起源は少なくとも藩政初期以前にさかのぼると思われている。
このような散居集落はこの砺波平野の庄川の扇状地の他に、同じ富山県の黒部川扇状地、静岡県の大井川下流地方、島根県の出雲平野、香川県の讃岐平野、岩手県胆沢町の胆沢川扇状地に見られる。
砺波平野は庄川の作った扇状地で、この地を開拓するにあたっては、微高地に住居を定め、その周囲を開いていったと思われる。扇状地のため水は容易に引くことができたので、家々は散らばりその周囲を耕作するようになったと思われる。このような散居村の形態ができたのは、砺波平野の開拓が進む、中世末から近世初頭にかけてと思われ、その後集村することなく現在に続いているのです。
この地を治めていた加賀金沢藩でも、田地割を行っているが、住居の近くへの替田を認めていたようで、活発な替田が行われ、耕作地は自分の住まいの周りに集まったようだ。
砺波平野の散居村地帯の広さは約220平方km、散居民家7,000戸と云われている。
農家を取り巻く屋敷林(かいにょう)の起源もはっきりしないが、開拓時に原生林の一部を屋敷林として残したと思われる。屋敷林は杉が主体であり、杉は防風効果もあり、落ち葉や小枝は燃料となり、建築用材にも使われた。
散居村を構成する農家は、大きな切妻造りの建物で、妻側の構造材を見せ、白漆喰を塗った見事な建物で、屋敷林の中で付属の建物とともに生活されていた。  
町並指数  50
参考文献
  富山県の歴史散歩  山川出版社  富山県歴史散歩研究会  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年

井波町閑乗寺公園の展望台からの風景
遠景を入れると霞んでしまい何も見えない

砺波市の散居村

庄川町の散居村

庄川町の散居村

庄川町の散居村

庄川町の散居村

庄川町庄の散居村の民家
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