今石動町は富山県の西端に位置し、旧北陸街道沿いの町である。 江戸時代を通じて加賀藩領。天正14年(1586)前田利秀が今石動城に入り、砺波・射水両郡4万石を領し、今石動に城下町を建設した。地震で崩壊した木舟城下から鍛冶・紺屋・細工などの諸職人や町人を呼びよせた。その時にできた鍛冶町や紺屋町などが、後の本町に相当する当時の基幹が形成されたと思われる 。 前田利秀は文禄2年(1593)に病死し、家老の篠島氏が城を守ったが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となってしまった。 篠島氏は城下の屋敷にいたが名代を勤め、寛永10年(1633)に加賀藩の今石動町奉行となり、砺波・射水両郡の郡奉行も兼ねた。このためこの今石動は砺波地方の政治・経済の中核地として栄えた。 承応3年(1654)には給人米を扱う蔵宿が設置され、年貢米の大集散地となった。 今石動町奉行の支配地で本町15町・散町11町在った。元禄15年(1702)の今石動町図によると、町並みは北陸街道南端の散町の南上野町端から東端の散町の川原町木戸まで13町32間であって、城山を背にして藩役所・高札場がある。高札場前の丁字路(北進してきた北陸街道が東に折れ、氷見道が分岐)にある中町を中心に本町・本町の町続きに散町がある。 今石動は城下町の成立時から倶梨伽羅(くりから)峠をひかえた交通の要衝として宿場の機能を有していた。宿駅として今石動宿は慶長期に加賀藩から指定されたと思われる。宿泊休憩施設として加賀藩主は正保4年(1647)藩費で「御旅屋」を建て参勤交代・鷹狩りの際利用した。江戸中期になり御旅屋は廃止され、民家を本陣として使用するようになった。本陣の他には脇本陣・旅籠・茶屋などの施設があった。 加賀藩による伝馬宿駅制度の中で、鍛冶町を除く14町が宿役を負担していたが、宿負担が大きかった。 家数と人数は元禄3年(1690)の家数1,162・人数5,064。寛政2年(1790)家数1,007・人数5,347。 産業としては八講布・五郎布に代表される特産布の集散地で、天明6年(1786)には布の仲買人は230軒余りもあり、機子数百人もいたが、他国商人や福光町の在郷商人に押されて衰退し、代わって木綿機屋が台頭し200軒にもなった。又、鍛冶業が盛んで、初期には主に武具や建築金物を作っていたが、今石動城廃城後は農具が中心であった。 今古い町並みは県道42号線の一本北側の旧北陸街道の今石動町1町目と西福町に残っていた。 伝統的な様式の古い建物が連なる光景が見られる見ごたえがある町並みである。この地方独特の2階屋根の張り出した出桁造りの家屋が並ぶ。2階部分は袖壁に真壁造りで白漆喰が美しい印象を与える。中には千本格子を残して家もあり古い町並みと云うにふさわしいと思う。 また、この地の特色でしょうか霧除けのオダレが伝統的な家屋には付いている。只この地ではオダレのことをどう呼んでいるか聞くのを忘れてしまった。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
今石動町1丁目の町並 |
今石動町1丁目の町並 |
今石動町1丁目の町並 |
今石動町1丁目の町並 |
今石動町1丁目の町並 |
今石動町1丁目の町並 |
西福町の町並 |
西福町の町並 |
西福町の町並 |
西福町の町並 |