能登の中心地七尾町は、天然の良港を抱え、海陸の交通の要衝であった。七尾町は所口町とも呼ばれ、明治8年に七尾と決定されるまでは混用されていた。 天正15年(1581)能登に入封した前田利家は、それまでの能登守護畠山氏の居城の七尾城を小丸山に移して城下町を整備し、寺院も小丸山城下の東西に集めて寺町を形成し、これを七尾町とも所口町ともよんだ。しかし城は元和2年(1616)の一国一城令で廃城となるが、城下町はそのまま残り、港町・商工業都市として発展を続けた。 元和2年(1616)の所口・府中両町屋敷検地絵図によると、新町(阿良)・一本杉町・豆腐町(生駒)・米町・竹町(三島)・かわや町(木町)・魚町・味噌屋町(亀山町)・檜物町・大手町・作事町・大工町(橘)‥‥等の18町が記載されている。 寛文6年(1666)の家数1,428・人数7,473と能登地方最大の町であり、商工業・交通・北前船で知られる中心都市として栄えた。江戸後期の文化10年(1813)には四十物(干物)商90軒・外海船商35軒・外海船並商87軒・米商100軒・金物商106軒を始め68種1,099軒の商家があった。 所口町は金沢から続く七尾街道(東往来)・西往来や内浦街道・外浦街道との連結点の陸上交通、そして天然の良港で北前船による遠海航路・加賀藩領内への近海航路の中心的な港湾として繁栄していた。 明治初期までは500石以上の帆船が100隻以上も常時出入りし繁盛していたという。 今回訪ねた一本杉通りは七尾市街地の中央を流れる御祓川(みそぎ)に架かる仙対橋以西約620mの街路。七尾市を東西に貫く幹線で、生駒町・一本杉町を通過し、松本町に続く明治以来の県道であった。古くから商店街として栄えた伝統的な商店街。卸・小売の老舗が多く伝統的な様式の家屋で商いされているのが散見できるが、七尾市の人口集中が東に移るにつれ、また駅前に大型店舗が進出すると次第に商業機能が低下していった。それでも伝統的で古風な大型店舗が連なる町並は見ごたえがあった。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
一本杉通りの町並 |
一本杉通りの町並 |
一本杉通りの町並 |
一本杉通りの町並 |
一本杉通りの町並 |
一本杉通りの町並 |
一本杉通りの町並 |
中央通り阿良町の町並 |
中央通り阿良町の町並 |
中央通り桧物町の町並 |
中央通り(桧物町)の町並 |
塗師町の造り酒屋 |