旧滑川宿は富山平野の北東部に位置し、北陸街道の宿場町として発展し、街道沿いに細長く形成された町で物資集散地としても発展したところ。 江戸時代は加賀藩領であった。 整備されていない北陸街道沿いに、滑川大町が永正年間(1504〜21)に、狭町(現瀬羽町)が天正年間(1573〜92)に、新町(現荒町)・中町・神明町が慶長年間(1596〜1615)と云うように、北陸街道沿いに次々と町が形成されていった。 加賀藩は元和元年(1615)に北陸街道の宿場と指定し、寛永2年(1625)大町に御旅屋(藩主の休泊所)が置かれた。だが、この北陸街道は海沿いを通っていたため被害を受けることが多かったので、寛永6年(1629)山側に移転した。橋場から道路が鉤形に曲がっているのはそのため。同19年(1642)滑川本陣が定められた。 穀倉地帯の後背農村の物資流通・集配と街道の宿場町として橋場を中心として発展し、東側に本陣が置かれ、大町を中心とした宿駅・物資集散の宿方・商家が集まり、年貢米を収納する米蔵も置かれ、町の有力商人は蔵宿を勤めた。西側には物資の船積み及び漁業などの浦方に分けられた。 元和元年(1615)の滑川町の家数は大町41・狭町52・新町31・猟師町25・神家町25・神明町10であった。元禄3年(1690)の家数434、安政5年(1858)の家数1,305・人数5,662で、明治5年の家数1,025とある。 滑川売薬は富山売薬の技術を導入した高月売薬から伝播し、江戸中期から漁師の冬場の副業として始められたもので、文化10年(1813)には37軒の売薬関連の商売屋があり、嘉永6年(1853)には30軒148人の行商人がいた。営業形態は兼業が多く、屎物商売・酒造・質屋・蔵宿などの有力商人が兼業を行っていたが、以来町の主産業として現代まで続いている。 古い町並みは、旧北陸街道に沿って展開している。西の山王町辺りから始まり、東に横町・瀬羽町・浜町・橋場町・大町・荒町・中町・神明町と続く。伝統的な様式の家屋は切妻造り平入りで、多くは連続してないのが惜しまれるが、個々の建物も質が高いこの地方独特の出桁造りで、一階の軒より2階屋根が前に出ている雪対策の家屋がである。 家屋の形態や質などから見て、宿場町としての家屋形態よりも、商業の町としての質の高い商家建物が残っているようで、売薬商家だったのだろうと思う。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
中町の町並み |
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河浦町の町並み |
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横町の町並み |
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