能登部下は能登半島中部、邑知地溝帯中央、眉丈(びじょう)山麓に位置している。 江戸期のはじめは長氏領、寛文11(1671)から加賀藩領となる。 眉丈山麓を通る西往来に沿って発達した集落で、寛永5年(1628)の記録では家数124とあり、農業を中心とした村であった。安永2年(1773)の記録では家数215・人数932。天保年間(1830〜44)には家数271・人数1,295とある。 只、加賀藩では所口(七尾市)の繁栄を維持のため、この西往来を公認の街道として認めなかった。でも金沢〜奥能登間の荷物は所口を通るよりも、田鶴浜より良川・金丸を通り邑知潟を通過させる方が時間的に早いため、このコースが利用されることがあったが、二宮・高畠宿からは宿抜けとしてしばしば摘発をうけた。二宮・高畠の強硬な反対でこの西往来が全面解禁されたのは慶応4年(1868)になってからである。 又、当地で麻織物は古くから自給用として製織されてきたが、元禄頃(1688〜1704)は近江商人の前貸資本で近江布の原料として芋鰍出荷し、典型的な問屋制家内工業として発展した。芋鰍ニは麻を紡ぎ糸に仕立てたものである。 文化11年(1814)能登部村の十村与三右衛門は、近江商人資本から離脱するため、藩の助成を得て近江の製布技術を導入、文政元年(1818)から能登部縮・徳丸縮の名称で売り出し、織物産業の村としても発展してきた。 明治10年には能登製布会社の設立、大正3年の能登麻織物同業組合の結成を経て飛躍的に発展し「能登上布」と称して宣伝された。大正10年の統計では能登部村の機数518台、生産高14,315疋・37万2,000円となっていた。昭和初期に100軒を数えた製造業者も今は能登上布保存会によって伝統を保存されているに過ぎない。 一方、明治21年からはじめられた薄絹羽二重は順調に発展し、麻織物から輸出用羽二重に転換するものが多く、昭和初期には人絹工場が急増した。そして今は絹・合繊の繊維工業の町として発展している。 眉丈山麓を通る西往来に沿って能登部下の町並は続いている。妻側を真壁にして、妻入りの大型の建物の連なる町並は見るものを圧倒する。殆どは明治時代に建てられたものの様だが、妻側に格子を残した家も多く、見応えのある町並みだ。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
能登部下の町並 |
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